公害弁連ニュース 第136号 2003年2月10日発行



目次
事実の重み −もんじゅ判決に思う−   代表委員 弁護士 豊田 誠
圏央道あきる野土地収用事件
 −収用裁決の取消と執行停止を求めて
   弁護士 吉田 健一
普天間爆音訴訟ついに提訴   弁護士 加藤 裕
大型車交通量削減のため公調委へあっせん申請   尼崎大気汚染公害訴訟弁護団 弁護士 西田 雅年
川辺川利水訴訟結審   川辺川利水訴訟弁護団事務局長 弁護士 森 徳和
【若手弁護士奮戦記】 川辺川利水訴訟奮戦記   川辺川利水訴訟弁護団 弁護士 原 啓章







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事実の重み −もんじゅ判決に思う−
代表委員 弁護士 豊田 誠
 1月27日「もんじゅ無効判決」のニュースが,報道されるのを見て,私は,一瞬まちがいではなかと疑った。翌28日の朝刊各紙の一面トップで「もんじゅ設置許可無効」の活字が躍った。名古屋高裁金沢支部(裁判長川崎和夫)が,住民32人が国を被告として高速増殖炉もんじゅの原子炉設置許可処分の無効確認を求めた訴訟で,一審福井地裁の住民敗訴判決を取消し,許可処分を無効とする逆転勝訴の判決を言渡したのだ。画期的な判決である。
   私は,判決を評釈するほどの,原子力問題の知識をもちあわせているわけではない。しかし,この判決の要旨を読んでみると,司法判断の視点が,安全性のあり方についての確固とした信念に立脚しているものと受けとめられた。

 判決は,原子炉設置許可処分が違法となるのは,現在の科学技術水準に照らし,・原子力安全委員会等の用いた具体的審査基準に不合理な点があること,あるいは・具体的審査基準に適合するとした原子力安全委員会等の調査審議,判断の過程に看過しがたい過誤,欠落があることとした。
 そして,違法な行政処分を無効とするには,その違法が重大かつ明白なことが原則だが,特段の事情のあるときは,違法の明白性の用件を必要としない,との考え方を示した。
 さらに,判決は説示する。放射性物質が周辺の環境に放出されるという,発生の具体的危険性を否定できないときは,安全審査の根幹を揺るがすものであり,原子炉設置許可処分を無効ならしめる重大な違法となる,と。
  こうした立場から,裁判所は審査の過程,内容を吟味しつつ,時には「誠に無責任で審査の放棄といっても過言ではない」などと,国の安全審査を厳しく批判している。

 この判決を書かせた住民や弁護団の努力は,並大抵のものではなかったにちがいない。しかし,何といっても,原子力をめぐる,これまでの事故の重みが,司法の姿勢の決定的要因となったものと考えている。判決要旨には記述がないが,「判決はチェルノブイリ事故の惨状に触れ,『炉芯崩壊が空想ではなく,現実に起こりうるとして安全評価がなされなければならない』と指摘した」(朝日新聞)という。
 86年4月のチェルノブイリ事故は,原発事故の恐ろしさ,悲惨さ,回復困難さを,全世界に示した。もんじゅ自体が95年ナトリウム漏れの火災事故を起こしているのだ。99年には東海村の核燃料加工会社の臨界事故,02年には東京電力の損傷隠しなど,原子力の安全性をめぐる問題があいつぎ惹起している。ひとたび,チェルノブイリ事故のような事態が起きてからでは,手遅れである。
 こうした事故の具体的な危険性の事実が,今回の画期的な司法判断を生み出したのではないだろうか。

 公害裁判の歴史の一側面は,行政に追随する司法との闘いでもあった。
 73年5月,村上朝一最高裁長官は,その就任の言葉の中で,「これらの事案において,裁判所の示す判断は,たんに当該具体的事件の解決にとどまらず,他の同種紛争の訴訟外での解決の基準とされ,あるいは。国の施策に影響するなど他に波及するところがまことに大きい」と述べ,司法の自己抑制,行政追随の姿勢を求めたのであった。下級審に対する一種の恫喝でもあった。
 このあと,空港,火電,し尿処理場,ゴミ処理場などの差止め訴訟は,敗北の辛酸をなめさせられてくる。わずかに,牛深市し尿処理場(75年2月),徳島市ゴミ焼却場(77年7月),宇和島ゴミ焼却場(79年3月)など,ごく少数の事件で勝訴したにとどまった。
 78年6月には,岡原長官も「具体的事件に対する裁判所の判断が同種の紛争の帰趨や国の施策の立案にも影響を及す場合があることを忘れてはなりません」と訓示した。これは,当時予定されていた東京地裁のスモン判決を意識したものだというのが新聞論調だった。しかし,東京地裁判決は,厚生行政に対する厳しい批判をするものとなった。東京地裁を最高裁の呪縛から解き放ったのは,まさにスモンの悲惨きわまる被害の事実の重みだたといってよい。
 81年の大阪国際空港最高裁判決は,損害賠償請求を是認したものの,差止請求を却下した。公害裁判は,冬の時代に入っていく。差止請求は分厚い壁に阻まれてきた。これを突きくずし,尼崎(00年1月),名古屋(00年11月)と続く差止勝利の判決への道を切りひらいたのは,一連の大気汚染訴訟であった。全国的に明らかにされた大気汚染公害の被害の事実の重みだったといってよい。

 01年5月のハンセン国賠訴訟の熊本地裁判決もまた画期的な全面勝利の判決であった。被爆者医療,強制連行,福岡じん肺,浮島丸,東京大気等と続く判決は,行政追随の司法の壁が崩壊し始める兆しのようにも見える。今回のもんじゅ判決は,その流れの中にある。
 大事なことは「司法が変った」のではない。司法改革論議が官僚司法の呪縛をゆるめているという見方もある。私は,司法の現場に提出される事実の重みが,司法判断を揺さぶってきているのだと思っている。従って,弁護団の法廷における活動が,観念的議論に依拠することなく,事実の重みを裁判官の心のひだに刻み込んでいくもの,そのことが要になるのだと思う。




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圏央道あきる野土地収用事件
−収用裁決の取消と執行停止を求めて−
弁護士 吉田 健一
1 理不尽な収用裁決
 2002年9月30日,東京都収用委員会は,首都圏中央自動車連絡道(圏央道)の建設計画のために,東京都あきる野市牛沼地域の地権者・住民らに対して,土地収用裁決を下した。地権者・住民らが最終の意見書を提出してわずか2ヶ月ほどしか経っていないにもかかわらず,突然出された収用裁決であった。
 収用委員会は,2001年5月から始まった公開審理でも,当初から短期間で審理を終了させて裁決手続きを進めようとする意図を露骨に示していた。これに対して,地権者らは,実質審理を求めてねばり強く取り組み,10回にわたる公開審理を実現させた。毎回の意見陳述を通じて,圏央道計画が重大かつ明白な瑕疵のある事業であることを明らかにしてきた。具体的には,起業者である国土交通省(建設省)は地権者らの意思を無視し,納得できる説明もないまま計画を進めてきたこと,地域の開発計画も破綻し圏央道計画の目的が失われており建設の必要が存在しないこと,わずか2キロ足らずの地域に2つものインターを,しかもサマーランドという娯楽施設のために設置する必要のないこと,健康被害をもたらす大気汚染や騒音問題など道路公害を著しく激化させること,一部環境アセスもされておらず,実施されたアセスも十分でないことなどである。
 ところが,本件の収用裁決は,「重大かつ明白な瑕疵」が認められないというだけで,起業者の申請を容認し,何ら理由を示していない。収用委員会の審理を制限する改悪がされた土地収用法「改正」を先取りするような裁決といわざるを得ない。

2 裁決取消訴訟の提訴と効力停止の申立
 地権者らは東京地方裁判所に収用裁決取消の訴えを提起するとともに,収用裁決について効力停止の申立を行った(民事第3部に係属)。この収用裁決が執行され,地権者らの家屋敷が撤去されて高速道路が造成されてしまえば,取消訴訟が認められても,回復が不可能となってしまうからである。
 しかし,収用委員会側は,地権者らの停止申立について,金銭賠償ないし補償による回復をもって満足させることができるなどと主張し徹底して争っている。
 そもそも,本件の収用裁決は内容的にも手続き的にも,きわめて問題である。また,地権者らは,先祖代々,古く江戸時代から土地に密着して生活してきたのであって,その重みを無視することは許されない。申立人の中には,80歳の高齢で病気のために通院・加療中の地権者もいる。地域・近隣の相互援助のもとにようやく生活を維持している。強制的転居がもたらす危険性を考えると金銭によって代替することは到底できない。
 他方,全長300キロメートルに及ぶ圏央道計画のうち,今日開通している部分は本件より北側のわずか28,5キロメートルで,10%にも満たない。今後10年をかけて全体を開通させようとする道路計画である。加えて,本件土地収用により開通する部分は2キロメートルにも満たないのみならず,その先の工事も遅々として進んでいない。すなわち,本件土地部分より南西側にある北八王子インターから,さらに南に位置する八王子ジャンクションまでの間で,多くの住民によって道路建設工事の差止訴訟(いわゆる「高尾天狗訴訟」)や事業認定取消訴訟が提起されており,未だ,収用委員会の審理すら開始されていない。のみならず,この地域で着工済みの工事も,井戸涸れ,沢涸れ,ダイオキシン土壌の撤去問題など難問が続出し,工事ストップを含めて遅延は著しい。
 このように,あきる野地区の土地収用については,収用裁決の取消訴訟が決着するまで,手続きが停止されたとしても,全体の道路計画に与える影響は微々たるものである。
 ところが,収用委員会は,行政事件訴訟法の規定(25条2項但書)を盾に,執行停止は代執行の段階で行えばよいから,現段階で停止の必要性はなく認められないなどと抵抗している。しかし,代執行以前の現段階では,収用裁決の効力停止について判断を求めるしかない。実際も,代執行などという事態に至る前に,収用裁決そのものの効力停止を認める必要が大である。裁判所の英断が期待される。

3 立証段階を迎える行政訴訟
 先行して係属中の事業認定取消訴訟(2000年12月提訴)は,すでに主張段階を終え,立証段階に入ろうとしている。昨年11月には,現地での協議を実施し,地権者側は各現地で意見を述べて問題点を指摘した。このように裁判所による現場の見聞をふまえて,前記の裁決取消訴訟とも併合し,1年足らずの審理で立証を終了する計画を示して進行協議を進めている。いよいよ審理も山場を迎えることとなる。
 前述の収用裁決の効力停止申立について,裁判所は1月中にも判断する姿勢を示しており,本ニュースが発行される時点では,結論が出ていることになる。
 いっそうのご支援をお願いしたい。



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普天間爆音訴訟ついに提訴
弁護士 加藤 裕
 2002年10月29日,沖縄県宜野湾市の住民200名が原告となって,米軍普天間飛行場の爆音差止と損害賠償を求める訴訟を那覇地方裁判所沖縄支部に提訴した。沖縄県内では嘉手納基地爆音訴訟の長い闘いが続けられているが,遅ればせながら,普天間基地の爆音についてもやっと初めての提訴となった。

<普天間基地の概要>
 普天間飛行場(普天間基地)は,沖縄本島中部の宜野湾市のど真ん中にある面責480.6ヘクタールの米軍基地で,2,800メートルの滑走路を有する。普天間基地は,戦時中の日本軍飛行場を占領して拡張した嘉手納基地とは異なり,米軍が1945年4月の占領と同時に囲い込んで建設された経緯をもつ。現在は,普天間海兵隊航空基地隊が管理しており,第3海兵遠征軍の第1海兵航空団のもとにある36海兵航空群のホームベースとなっている。固定翼機のほかに,CH−46やCH−53などのヘリコプターの基地となっていることが大きな特徴である。
 住民地域に無理やり基地を建設した経緯があるため,周囲はすべて宜野湾市の住宅地域になっており,また,頻繁に墜落事故を起こすヘリコプターの基地でもあることから,その爆音被害のひどさや事故の危険はつとに指摘されてきている。

<提訴への道のり>
 沖縄で少女暴行事件をきっかけに反基地運動が高揚したのを受け,橋本総理とモンデール駐日大使は,1996年4月,代替基地提供を条件として普天間基地を5〜7年以内に返還するという電撃的な合意を発表した。名護市辺野古沖への海上基地建設問題は,ここに出発点がある。
 普天間基地周辺では,過去にも嘉手納爆音訴訟を手本に提訴をしようとの動きがあったが,なかなかきっかけがつかめなかったようである。しかし,本年4月には上記の返還合意がなされてから7年経過するにもかかわらず,まったく返還のめどが経たないことや,普天間住民のこれまでの苦しみを県内の別の地域で新たに引き受けさせようという重大な事態が進行しつつあるなかで,いろいろな分野で基地問題に取り組んでいる地域住民が団結し,約1年の準備を経て,ついに提訴に至った。

<本訴の特徴>
 本件訴訟では,過去の爆音訴訟にならって,国に対して,夜間の離着陸等の差止と,損害賠償を求めているが,これら以外にも特徴的な請求を盛り込むことにした。
 その第一の特色は,普天間飛行場の基地司令官個人を損害賠償請求の被告に加えたことである。米軍基地訴訟での差止は,これまで国を名宛人にしても認められてこなかったため,横田や嘉手納の訴訟では,直接米軍を相手に差止を求めて新たな努力がなされている。しかし,先の最高裁の判断にみられるとおり,これには主権免除の理論が大きく立ちはだかっている。このため,国に対していくら違法判断がなされて賠償が認容されても,爆音被害は野放し状態であり,国と米軍に対して被害を防止するための対策を義務づけられず,特に米軍はこの違法行為に対して何ら制裁も課されてきていない。そこで,何とか米軍に対して,これら爆音被害の責任をとらせて被害の防止に努めさせることができないかという観点から,航空機と飛行場の運用に責任を持つ司令官個人の不法行為責任を問おうとしたものである。今後,経験ある各地の弁護団から,これについての知恵をぜひお借りしたい。
 本訴のもう一つの特徴は,将来請求について,とりあえず口頭弁論終結後1年分の請求に焦点を絞って行おうとしたことである。将来請求もこれまでまったく裁判所で認められてこなかったが,口頭弁論終結後いくら被害が継続していることが公知の事実であっても,それを無視して,改めて訴訟を起こせというのは,被害救済の点からも,違法行為の放置という観点からも到底容認できない。本訴では,将来請求についてもぜひとも認容させるべく,短期間の将来請求を前提に立証をやりきろうという気概で取り組んでいる。
 もちろん,爆音被害の立証という面では,ヘリ騒音の特殊性という問題も含んでおり,これから焦点をあていきたい。
 那覇防衛施設局は,新嘉手納爆音訴訟では5,000名以上も原告として名を連ねているのに,普天間訴訟では原告が200名に過ぎないので,当局の対応を地域住民が受け入れてくれているものと考えている,というようなコメントをしていることが報道で明らかになった。このような対応に反撃すべく,現在,さっそく第2次,第3次の提訴準備を進めているところである。



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大型車交通量削減のため公調委へあっせん申請
尼崎大気汚染公害訴訟弁護団 弁護士 西田 雅年
1 あっせん申請に至る経緯
 尼崎大気汚染公害訴訟の原告団(うち21名)は,昨年10月15日,公害等調整委員会に,あっせんの申請を行った。
(1)尼崎大気汚染公害訴訟は,既報どおり,2000年1月31日,画期的な差止判決を下した。その後,当事者双方が控訴し,同年12月8日,大阪高裁において,原告らとの間で和解が成立した。今回のあっせん申請に関係する和解内容は,次のとおりである。国が汚染物質とされたSPM(特にディーゼル排気微粒子=DEP)と健康被害との因果関係を基本的に認め,@大気汚染レベルが一審判決の差止基準より厳しい国の環境基準値を達成するまで自動車排ガス対策を一層強力に推進すること,A本件地域における大型車の交通量低減の必要性を理解し,大型車の交通規制の可否を検討すること,Bそのために必要な交通量の調査を平成13年度までに着手すること,C大型車規制の可否の検討については早期に検討結果が出るよう警察庁に要請することを約束したこと,D和解の具体的内容について原告らと国・公団と協議・交渉する場としての「連絡会」の設置であった。
 原告らは,このような合意ができたことを受け,損害賠償のみならず差止請求も放棄した。
 上記和解の最大の眼目は,国・公団が本件地域において,大型車の交通量低減に積極的に努力していくことを原告らに確約し,従来の交通量至上主義の交通政策・道路政策を根本的に転換したことにあった。
(2)「連絡会」は,2001年3月1日の予備交渉から始まった。しかし,国(近畿地方整備局)は,原告らと事前の交渉なく,一方的に道路交通量調査を実施した。しかも,整備局側は兵庫県警に大型車の交通規制について検討を依頼したものの,大型車規制は「道路交通法上の規制」であり道路管理者の権限外であること,兵庫県警が規制は困難であるとの結論を出したことを受けて,大型車の交通量低減についての和解条項を履行しようとしない。なお,整備局は,整備局と兵庫県警相互間でやりとりされた文書は無いとの回答をしている。
 このような整備局側の態度は一貫しており,原告らからの要求はいずれも拒否している。そこで,原告らは,国に対して,大阪高裁での和解条項により実施した道路交通量調査に基づき,本件地域に於ける大型車の交通量低減のため大型車の具体的削減(低減)目標を設定し,それに沿う大型車規制施策を個別具体的に検討する等,和解条項を誠実に履行せよ,とのあっせんを求めた。

2 第1回期日(2002年11月29日)
(1)当日は,東京の公調委において午後2時から開催された。あっせん委員は加藤和夫委員長(元札幌高裁長官),平野治生委員,堺宣道委員の3名である。
 冒頭,加藤委員長より,この場で論争するのは適当でない,あっせんが成功するように協力してほしい,事実関係について共通の認識をもってあっせん案を探っていく旨の発言があった。
 そして,当事者双方からの主張の陳述,申請人本人の意見陳述が行われた後,加藤委員長より当事者双方に対して質問がなされ,当事者双方がそれに回答していくという順序で始まった。
 当日の質問内容としては,@本件和解条項の認識の差について,何に基づいて判断すべきか,A和解条項で言う,交通規制は「道路交通法上の規制」に限定されるのかどうか,その根拠,B国土交通省,警察庁の守備範囲,C大型車の交通規制について,目標や施策はあるのか,Dあっせん手続を通じて何を求めるのか,等であった。
 この中で,被申請人側は,本件和解条項については文理解釈によって判断すべきこと,「規制」とは道路交通法上の規制であること,その権限は警察庁の所管事項であること,大気汚染を理由とする通行規制はできないこと,県警との文書は無いこと,本件和解条項について原告らとの間で意見交換していないこと等をそれぞれ明らかにした。
(2)その後,申請人側と被申請人側とに個別に分かれて,さらに突っ込んだ質問がなされた。委員長からは形式的には国は履行しているのではないか,申請人主張について証拠はあるのか等が問われた。また,申請人側からは,手続の公開を求め,公開が無理でも議事録の文書化を求めた。さらに現地を見てもらいたいことを求めた。
(3)最後に,再び当事者が同席した上で,今後の進行が検討された。そして,次回現地に行くことが決定された。これは,裁判でいう検証に近いもので,現地で当事者双方から説明を受けるという手続である。なお,手続の公開については,できないという回答があった。終了は午後5時過ぎ。

3 現地調査(2002年12月13日)
(1)午前8時30分から現地調査が開始された。公調委からは委員3名と事務局の担当者数名,申請人側は原告3名,弁護団5名が参加した。
 本件地域の東本町交差点から玉江橋交差点まで全員が歩き,それぞれのポイントにおいて,当事者双方から説明を受けるという内容で,2時間程度で終了した。
 調査時は,国道43号線の朝のラッシュ時にあたり,ひっきりなしに大型車が行き交い,しかも43号線の交差点では南北道路から大型車の流入が多数見られた。
 なお,当日は多数のマスコミ(新聞・テレビ各社)が殺到し,最初のポイントである東本町交差点では一時混乱し,早急に切り上げざるを得なかったというハプニングもあった。
(2)現地調査後は,現地調査の補充説明を受けるという手続に入った。
 申請人側は,1審判決当時と交通量は変わっていないこと,東本町交差点については南北の大物線の交通量も多いこと,特に患者は南側の築地地区から43号線を渡って野村医院や県立病院へ行くので交差点の陸橋を渡るのが困難であること,本件地域全体の交通量の削減を求めているから43号線に流入する車の規制が必要であること,その実効性を確保するためにも大阪府の協力が是非必要であること,43号線の大型車混入率は約28.5%で,従前の30%前後からやや下がっているが多軸車が多く20トン以上の超重量車が増えていること,裁判では大型車の排出量は普通車の30倍程度として主張していたが,実際には100倍以上であることなどを説明した。
 ここでも委員長から当事者へ質問がなされた。この中で,被申請人側は,交通量調査では多軸車のデータは無いこと及び多軸車の現状把握ができていないことを率直に認めた。また,大気汚染の測定所についても,委員長から諸外国であるようなリアルタイムでの数値で様々な規制をするような体制になっていないのか,との質問に,異常値が発生した場合には「調整」するため公表が遅れるとの回答をしたり,異常値について科学的な根拠があるのかという質問には,答えられなかったりという場面もあった。
(3)次回は1月23日,東京で開催することが決まった。

4 今後の課題など
 既に3月にも期日が指定されており,公調委としては3月までに当事者の主張を終え,その後あっせん案作りに入るとの意向を明らかにしている。
 そこで,申請人側としては,公調委のあっせん案に反映させるべく,大型車の交通量を削減(低減)する具体的な方策を早急に練り上げて提出するという重要な課題が残っている。
 なお,今回のあっせん申請後,兵庫県は昨年12月下27日,自動車NOX・PM法の改正に基づき,NOXやPMの排出基準を満たさないディーゼル車などの走行を規制する環境保全条例の改正案骨子を発表した。



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川辺川利水訴訟結審
川辺川利水訴訟弁護団事務局長 弁護士 森 徳和
1 国を圧倒した意見陳述
 1月24日(金)午後1時30分から福岡高裁で結審弁論が行われた。原告(控訴審の裁判であるが,原告と表記する)は,原告本人2名,弁護士9名の合計11名で意見陳述に臨み,裁判の争点についてそれぞれ意見を述べた。
 これに対して,国(被告は農林水産大臣であるが,国と表記する)は,土地改良事業の必要性について,ダムから水が来れば付加価値の高い農産物が生産できるという説明を行っただけで,最大の争点であった受益農家の3分の2以上の同意が得られたかどうかについては,一切意見陳述を行わなかった。これは,控訴審における審理を通じて,ずさんな同意取得の実態が明らかになったため,さすがに国の代理人としても,同意が適法に得られたという意見陳述をすることに躊躇したためと考えられた。
 このように,結審弁論における意見陳述は,原告が国を圧倒し,傍聴人の目にもその優劣は明らかであった。

2 結審をめぐるかけひき
 福岡高裁は,当事者双方の意見を聞いたうえで,1月24日に結審するために審理予定を立てた。昨年12月26日には,同意取得担当者の証人尋問が実施され,原告は,結審までの1ヶ月足らずの間に最終準備書面をまとめて提出するという超過密スケジュールを実行する計画を立てた。
 ところが,国は,12月26日の証人尋問後に開かれた進行協議の席上で,突然同意率を計算する基礎(分母)となる受益農家の数が増加する可能性があるので,結審を5ヵ月間程度延ばしして欲しいと申し出た。もともと国は,受益農家の数について十分に調査を行ったうえで,同意取得を行ったと説明してきた。国の申し出は,これまでの国の主張を根底から覆すものである。国は,そこまでして裁判の引き伸ばしを図り,まさに捨て身の戦術に出た。
 国の引き伸ばしの背景には,次のような事情があった。国土交通省は,ダム本体着工の障害となっている漁業権を強制収用するため,一昨年12月に熊本県収用委員会に申し立てを行っていた。昨年12月頃には,収用委員会の裁決が今年春頃には出されるという観測が流れていた。また,川辺川の本流である球磨川中流域最大の自治体人吉市では,統一地方選挙の際に市長・議会の同時選挙が行われることになっており,ダム推進派市長の当落が話題になっていた。このような状況のもとで,国は,劣勢に立っている川辺川利水訴訟の判決を先送りして,強引にダム本体工事に着手しようとしていたのである。
 原告は,国の引き伸ばしを厳しく批判するとともに,予定どおり結審することを強く求めた。その結果,裁判所は,合議のうえ1月24日に結審することを決定した。
 それにもかかわらず,国は,裁判引き伸ばしの策動をあきらめなかった。結審弁論の直前に行われた進行協議の席上で,国は,受益農家の数の調査結果を今年4月初めに提出するので,弁論を再開して欲しいと申し出てきた。4月初めには,裁判所の構成が変わることも予想されており,この時期に弁論再開を申し出ることは,裁判の引き伸ばし以外考えられない。
 原告は,再び国の姿勢を厳しく断罪したが,裁判所も動揺せずに,弁論を終結して判決期日を指定すると明快に述べ,弁論再開の申し出に対しては,仮定の話には回答できないと一蹴した。
 このように,国は,結審当日まで裁判の引き伸ばしを図った。弁護団のなかには,裁判所が判決期日を指定しないのではないかと危惧する意見もあった。しかし,裁判所は,判決期日を5月16日(金)午後2時と指定した。結審をめぐる激しいかけひきのなかでの判決期日指定に,裁判所の並々ならぬ決意が感じられた。

3 勝訴判決を勝ち取るために
 判決期日は指定されたが,勝訴判決を勝ち取るためには,新たな運動に取り組まなければならない。判決を挺子に土地改良事業を中止させるためには,国に上告断念を決断させなければならない。そのために,無駄な公共事業は止めろという国民世論を高めるとともに,超党派の国会議員を組織して土地改良事業中止の政治決断を国に求めていく体制を組む必要がある。
 土地改良事業が中止されると,多目的ダムとして計画されている川辺川ダムについても,かんがいという主要な目的が失われたことにより,見直しが求められる。
 九州では,現在「よみがえれ有明海訴訟」が起こされ,諫早湾干拓事業の見直しを求めている。川辺川利水訴訟は,公共事業をめぐる数々の裁判に大きな影響を及ぼす裁判として注目されている。
 これから5月の判決まで,更なる闘いが待ち受けている。



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【若手弁護士奮戦記】
川辺川利水訴訟奮戦記
川辺川利水訴訟弁護団 弁護士 原 啓章
 私は,2002年(平成14年)4月,熊本県弁護士会に入会し,所属事務所の縁もあって,川辺川利水訴訟の弁護団に参加させていただく機会を得ました。
 川辺川利水訴訟は,熊本地裁に平成8年に提起されたことで始まり,平成12年9月,第1審の判決が言い渡され,その後,福岡高裁で控訴審の審理が続いていましたが,2003年(平成15年)1月24日,遂に結審の運びとなりました。  したがって,私が関与したころには,裁判は既に大詰めを迎えていたといえるのですが,私が関与した約10か月の間においても,幾多のドラマがあり,短期間ではありましたが,中身の濃い事件関与ができたという印象で一杯です。
 その中でも,本件事業(国営川辺川土地改良事業)変更計画に関する同意署名簿の変造が発覚するに至ったことが一番印象に残る事件でありましたので,この点について,以下,述べたいと思います。
 一審被告は,本件事業変更計画に関する同意署名簿を書証として提出していましたが,それらの原本自体は一審原告側に示さないまま訴訟が進行していたところ,2002年(平成14年)5月に施行された同意取得担当者の証人尋問の際,一審原告側からの同意署名簿(こちらが参照していたのは写し)の記載に不備があるのではないかとの質問に当該証人が答えることができなかったことから(この時点では後述のような変造がされていたとは全く分かりませんでした。),同意署名簿の原本の参照を求めることになりました。これを受けて,裁判所は,同意署名簿原本の留置の措置をとり,一審原告側で当該原本を参照したところ,驚いたことに,砂消しゴムや修正液による変造箇所が多数発見されるに至ったのです。  従前から,一審原告側において,本件同意書の同意取得が杜撰なものであったとの認識はあったほか,前述の同意取得担当者の証人尋問においても,本人に確認を取ることなく近親者から同意を取り付けた事例,熊本県外に居住しており連絡を受けたこともないのに同意をしたとされた事例,ほとんど説明を受けないまま署名をした事例,虚偽の説明を受けたことにより署名するに至った事例,同意取得の担当者が対象者の家に上がり込んで飲酒をしながら同意をとった事例,手が汚れているなどの些細な理由から,担当者が庭先などで安易に代筆した事例,同意取得者自身が同意の対象事業を十分認識していなかった事例,公告の前にすでに同意署名を開始し,これが問題となるや同意署名簿を廃棄処分したことになっているのに,これを流用したことが疑われる事例など多岐にわたる問題事例が明らかになっていたのですが,これに加えてかかる変造までがなされていたことに我々は驚愕を覚えざるを得ませんでした。
 そもそも本件利水事業は,昭和30年代末ころに持ち上がった高原台地の水田化計画に端を発するものでありますが,昭和40年代後半ころまでには,高原台地において,水をそれほど必要としない茶栽培等で経営基盤を確立できるようになっていたことや,地域ごとの利水事業が実施されたことなどから,1984年(昭和59年)の当初計画のころまでには,本件事業は,対象農家にとって,必要性に欠ける魅力のないものとなっていました。
 しかるに,建設省による川辺川ダム建設計画の進行と相まち,大型公共事業で地元の経済活性化を図ろうとする推進派の存在もあって,これまで当該計画が維持されてきたという経緯がありました。
 すなわち,本件利水事業によって本来利益を受けるべき対象農家の多くが,当該事業は要らないとそっぽを向いている状況にあったにもかかわらず,大型公共事業の恩恵を受ける者の利害関係によって,当該事業は生き延びてきたといえるのです。
 かかる状況下において,本件利水事業を実現すべく,何とか対象農家の3分の2以上の同意を取り付ける必要があったため,勢い無理な同意取得が横行し,上記のような種々の問題事例や同意書の変造等が噴出するに至ったことは想像に難くありません。受益農家の真意に反する同意を取り付けるべく,強引な同意取得の実行がまさに必要とされたのです。  残念ながら,本件第1審判決は,本件同意所得における成就のような「構造的」な問題に十分目を向けていない嫌いがあるように思います。
 確かに,受益農家が多数に及ぶことから,同意取得に多少の過誤が伴うことはやむを得なかったのかも知れません。
 しかしながら,上記でみたとおり,本件においては通常予想される過誤のレベルを遙かに超えた多岐にわたる問題点が存在していたのです。
 本件事業の根本的な欠陥を背景にした本件同意取得の構造的な問題性に十分な光を当てた控訴審判決が下されることを祈念し,また,私自身,本件同意取得の問題性を明らかにした本件訴訟の審理に実際に立ち会えたことを光栄に感じつつ,これをもって川辺川利水訴訟奮戦記とさせていただきます。



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