巻頭言 ねばり強く前進をめざして

代表委員 弁護士 豊田 誠

豊田誠弁護士 あけましておめでとうございます
 2006年の新春を、あらためておよろこび申しあげます。
 03年から04年にかけては、圏央道あきる野、川辺川、有明海など、画期的な勝利判決が積みあげられ、波頭が高くうねっていた。05年となり、新嘉手納爆音、有明海上訴審、圏央道裏高尾行訴、もんじゅ最高裁敗訴、など後退の兆しがあった。しかし、原告適格を拡張した小田急事件の最高裁大法廷判決、そして、何よりも新横田基地訴訟東京高裁判決が、05年のしめくくりにふさわしい、画期的な前進の成果を示すものとなった。
 公害・環境裁判は、この1年、大きく波動しながらも、確実に前進してきているのだと思う。

「法治国家のありようから見て異常の事態」
 新横田基地訴訟の東京高裁判決(裁判長江見弘武)は、11月30日に言渡された。この日の午後2時29分、公害弁連西村隆雄事務局長から送られてきた「公害弁連・情報と通信」のFAXを読んで、私は驚いた。FAXの「おわりに」にこんな記載があったからだ。
 「判決は「おわりに」として、最高裁判決後も被害が放置され、いまだに補償制度すら設けられていないのは、法治国家として異常な事態であり、立法府として怠慢のそしりを免れないとして国の無策を厳しく断罪した点が注目される」と。そして、訴訟団、弁護団の共同声明では、この点が第一に評価されているのに、FAXに添付された「判決要旨」には、「おわりに」の部分は掲載されていない。
 早速、弁護団の中杉喜代司弁護士に判決文を送ってもらい、読ませてもらった(判決の評価については、当該弁護団(加納力公害弁連事務局次長)の論稿がある)。江見判決を読んで、私は、もっと驚いた。
 「国の防衛のために基地を提供する政策が、国民大多数の支持に基くもので、近隣国による軍備の増強等による脅威の下では、現下においてこれを終結する選択肢がないとしても」(現状肯定の仮説的論理であり、裁判所の判断ではない)、「このことは当然には、基地の騒音による被害を近隣住民に堪え忍ばせることを正当化するものではない」と言い切ったうえ、最高裁判決で「違法である旨の判断が示されて久しいにもかかわらず、騒音被害に対する補償のための制度すら未だに設けられず、救済を求めて再度の提訴を余儀なくされた原告がいる事実は、法治国家のありようから見て、異常の事態で、立法府は適切な国防の維持の観点からも怠慢の誹りを免れない」と。

補償制度の創設をめぐって
 補償制度のありようをめぐっては、検討すべき難問が多い。
 補償制度は、元来基地騒音による被害の存在を前提とするものであるから、補償制度を創設することは、基地騒音を固定化することになるのではないか、差止請求のたたかいができなくなるのではないか、といった疑問について詰めた議論が必要となろう。金さえ払えば、基地が固定化し、基地騒音を勝手にまきちらすことができるという、そんな仕組みであってはなるまい。
 公害対策の基本は、加害者(原因者)に、発生源対策と賠償責任を同時にとらせることである。基地騒音公害にあって、その発生源対策をどうとらせるか、これに住民の参加をどう実現するか、しかも、在日米軍の基地であるだけに、その発生源対策には非常に難しい問題が横たわっている。
 いっそのこと、賠償責任(補償)を先行して制度化させるか(政府が応じるかどうか疑問)、そして発生源対策は、政府との交渉、もしくは訴訟(損害賠償と併合されない差止訴訟は、それ自体困難をともなう)の課題にしてしまうか。住民、弁護団が十分検討しつくして、要求をまとめていくことが重要であろう。

公害弁護士の気概
 こんどの判決で、もう1つ注目させられたのは、「危険への接近」の判示のなかの「原告盛岡暉道弁護士」に関する部分である。判決は言う。
 「盛岡弁護士は、昭和46年、所属していた法律事務所に横田基地に関する訴訟提起についての相談が寄せられたのを契機に、横田飛行場の騒音被害の問題を担当することになった。同人は、立川市に居住していたが、夜間飛行及び年末年始と休祭日の飛行停止等をスローガンとして昭和47年に結成された「横田基地爆音をなくす会」の活動に参加して多くの時間を被害地域において割いた上、会議が夜遅くまで続くことも多く、通勤が負担になった。同人は、強固な運動体を作るには、住民の努力だけではなく、長期にわたり、持続的に地域での活動に参加していく弁護士が必要であり、離れた場所から通いながらではその仕事は不可能であると考え、昭和48年12月、妻子とともに現住所に転居した。」
 「騒音被害地に転居してから22年が経過した後に初めて原告に加わっている。」
 こうして、判決は、「危険への接近」の法理の適用を否定したのであるが、私が注目させられたのは、「危険への接近」の法理の適用を否定したその判示ではなく、公害弁護士としての生きざま、気概が、この判示から溢れるように伝わってきたことである。
 公害弁護団は、被害の現地に入ることを活動の基本とし、被害の現地から、被害の拡がりと加害の構造などを学びとってきた。イタイイタイ病裁判では、近藤忠孝弁護士が東京から富山に移住し、水俣病裁判(1次)では馬奈木昭雄弁護士、同じく(3次)板井優弁護士が、水俣の現地に移住して、活動してきた。盛岡弁護士のケースもそうした公害弁護士の生きざま、気概に共通しているのだ。判決のなかで具体的に詳細に判示されたのは、初めてのことであろう。
 裁判や運動には波があろう。しかし、公害被害者とともに闘う気概が公害弁護士たちに充ちあふれているならば、裁判や運動は必ず、前進する。ねばり強く前進をめざして、この新しい年に立ち向おうではないか。