巻頭言 公害裁判と運動の到達点及びその区切りの総括について

代表委員 近藤忠孝

 アジアで最も早く近代国家として出発した日本の国策は「富国強兵・産業優先」であった。この国策は、国外には侵略と植民地支配、国内には公(鉱)害等の災難をもたらし、公(鉱)害に対する被害住民の激しい闘いは、資本・権力・学界の三位一体の力の前に全部押し潰されてきた。
 戦後の高度経済成長のもと、各地に公害が多発し、被害が全国に拡大したが、闘いの組織自体困難を極め、被害は放置された。ようやく1967年、新潟水俣病訴訟が最初に提起され、次いで四日市公害裁判が闘われたが、資本側の徹底抗戦にあい悪戦苦闘し、長期困難な裁判の様相を呈していた。3番目のイタイイタイ病提訴が明治100年目であり、熊本水俣病・大阪空港・安中鉱害と訴訟の輪は広がったが、勝利の先例のない中で、みな暗中模索の取組みを余儀なくされた。その活路を開くために、1969年、富山で第1回青法協公害研究集会が開催されたが、「敗北の歴史から学ぶ」議論の末、「無限の科学論争」を阻止するために、「裁判では鑑定は採用させない」という意思統一がされた。
 これらの結集した力が、イタイイタイ病裁判で、三井金属側申請の「鑑定却下」決定につながり、「無過失賠償規定」(鉱業法109条)により過失立証が不要であったことから、1971年6月全国最初の公害被害住民勝訴の判決となった。今年3月7日にNHK「その時歴史が動いた」の番組で、この勝訴に関する放映がされるが、公害患者とその家族、被害地域住民、支援の住民運動、青年弁護士の力が、歴史を動かしたのである。
 三井金属は控訴したが、これに対する厳しい世論の批判が、続いて勝訴した新潟水俣病と四日市公害判決では、企業側を控訴断念に追い込み、イタイイタイ病控訴審でも、この世論を力に、わずか9ケ月後に結審させた。
 控訴審判決翌日の三井金属本社交渉では、勝訴判決を梃子に、患者に対する補償及びカドミ汚染田復元の誓約と、立入調査とその費用負担の公害防止協定を獲得した。
 以来34年間、科学者を伴っての立入調査の実を挙げ、神岡鉱山の公害防止対策は飛躍的進展し、「排出は自然界と同じレベルにする」要するに、「鉱山の操業からは一切の汚染物を排出しない」ことが被害住民との合意となり、その目的達成も時間の問題となっている。鉱山と言えは、鉱害を出すのが当たり前であったことから「無過失賠償責任」が法定されたのであるが、その鉱山が「無公害産業」となるのが目の前に迫っているのであるから、「世界史的大事業」(宮本憲一教授談)を成し遂げつつあるのである。
 1500ヘクタールに及ぶカドミ汚染田の復元事業は、「汚染米」の源を断ち、綺麗な大地を取り戻す被害地域全住民の悲願であったが、5年後には完了予定である。かって、農業被害と病気で苦しめられるばかりであった被害住民は、今や公害で破壊された地域再生大事業の主人公として、これを推進している。これは、鉱山の無公害化と合わせて、イタイイタイ病とカドミ汚染米の根を断ち切り、公害闘争の目的の達成に到達することである。
 更に被害住民は、行政に対して、「会館建設」の要求を行なっている。公害とその根絶の闘いの資料の保存と展示を永続的に確保し、公害発生及びそれとの闘いの教訓を後世に伝えるための施設(イ病総合センター)である。
としている。裁判と運動の到達点とその成果をきちんとまとめて意思統一をすることは、今後の公害再発防止のための監視活動継続のためにも重要なことであるが、その中で「公害終結宣言」をするかどうかが議論されることになる。従来、企業や行政からの「公害終結宣言」に対して、我々は、「公害は終わっていない」「公害対策をサボる口実だ」として反対し、抗議してきた経緯がある。しかし、今、イタイイタイ病被害地域で、被害住民が主人公となって、前記のような輝かしい成果を獲得してきたこと、「公害は、このような取組みによって、防止と根絶が可能である」ことを皆の確信にするためにも、また「カドミ汚染米の汚名」を取り除いて農業経営を維持発展させるためにも、必要なことではないかと考えている。このような論議に公害弁連の知恵が加わることが求められている。


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