【若手弁護士奮戦記】
新横田基地公害訴訟弁護団に入って

弁護士 中村晋輔

1 新横田基地公害訴訟控訴審判決
 私は、2005年10月に弁護士登録をした後、新横田基地公害訴訟の弁護団の一員となり、幸運にもその年の11月30日、東京高等裁判所での控訴審判決言渡しに立ち会う機会に恵まれた。傍聴席が埋まり、緊張感の漂う法廷の中で、一審原告側の代理人席に座って判決の言渡しを聞けたことで、自分は弁護士になったのだなという実感を得ることができた。だが、他方で自分は弁護団の一員としてまだ何も貢献できていない歯がゆさも感じた。判決主文言渡し後、私は先発組として法廷を出て、垂れ幕を出す小林善亮弁護士のサポート役をした。門のところで小林先生が垂れ幕を出している間、自分がどの辺にポジションをとってよいか迷い、微妙にウロウロしてしまった。その後、弁護士会の大講堂に行き、他の先生方が来るのを待っていた。そのときに、司会の先生から新人の弁護団員として話をするよう突然ふられたときには、「そんなこと聞いていない。」などと思った。今にして思うと、多くの原告やマスコミ関係者のいる前で話す機会はそんなにはないので、良い経験だったと思う。

2 他の基地公害訴訟との関わり
 この新横田基地公害訴訟の弁護団に入って現在に至るまで、色々と貴重な経験をさせてもらっているが、その中でも全国の他の基地公害訴訟と関わり合いがもてることが大きな魅力である。
 2006年3月28日の新嘉手納控訴審第一回口頭弁論には、新横田基地公害訴訟弁護団を代表して出席することになった。ある日の弁護団会議で、新嘉手納の控訴審第一回への出席要請が来ているということで誰か行って欲しいという話が出た。私は、まさか法廷で意見陳述をするということなどは全く知らずに沖縄に行くことが出来るなら幸せだと思い、安易に立候補した。立候補した直後に、どうやら意見陳述をするらしいということが判明した。一瞬後悔の念が走ったが、誰もができることではないし、好きなことをやるのだから、やってみようという気になった。しかも、同じ事務所の吉田榮士弁護士が指導してくださるということで、あまり不安はなかった。意見陳述の内容は、新横田の控訴審判決が出たばかりだったので、それを材料にして新嘉手納の第一審判決の問題点を指摘するということで、漠然としたイメージは出来ていた。しかし、実際に意見陳述案を作って吉田先生に提出すると、2回やり直しになった。私の作った意見陳述案では判決文の分析の甘さがでていたにとどまらず、一番の問題点は「傍聴席の人を意識していない」ということであった。吉田先生は、私が沖縄に行く前日にも、予行演習につきあってくださった。そのおかげで、当日の法廷ではあまり緊張せずに意見陳述をすることができた。実際の法廷では、我々弁護士による意見陳述よりも、ある原告(ご年配の女性)の意見陳述が最も迫力があり、印象に残った。
 騒音で生活が妨害されるという話だけでなく、戦争中に命からがら逃げた話、近くの小学校に米軍機が墜落した話もされ、沖縄の人々が常に我慢を強いられて悔しい思いをしていることを話された。米軍基地を押しつけている側の本土の人間には、その原告の言葉が身に突き刺さるような感じであった。
 2006年7月13日の第三次厚木基地爆音訴訟の控訴審判決言渡しにも立ち会わせていただき、各基地公害訴訟の原告団の雰囲気の違いを感じることができた。

3 新横田基地公害訴訟の現在
 現在、新横田基地公害訴訟のたたかいの場は、米軍機の夜間早朝の飛行差止めと将来の損害賠償請求の2点について最高裁判所に移っている。私も差止めの書面の作成に関与させていただいた。最高裁に提出した書面の中に、代理人弁護士の一人として自分の名前が入っていたことは素直にうれしかった。

4 今後の抱負
 私はもともと米軍基地の問題に興味があり、大学のゼミでは平和憲法について勉強をした。卒業論文では在日米軍は違憲な存在であることを論じたりした。というわけで、自分の中では「公害」という視点はあまり持っていなかった。だが、公害総行動に参加させてもらったり、新横田の訴訟団の話をお聞きしたりする中で、「公害」という視点の重要性も感じている。今後も新横田基地公害訴訟を中心にして、弁護士活動をがんばっていきたい。


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