よみがえれ!有明海訴訟
弁護士 紫藤拓也


1 有明海異変

 2000年,海苔の国内生産の4割を占める有明海で,海苔の色が黒くならない「色落ち」が発生し,有明海沿岸4県の海苔販売枚数が平年作の5割程度に落ち込むという大凶作が起きた。原因は例年より2ヶ月以上も早く起きた植物プランクトンの大量増殖(「赤潮」)だった。時期的には,1990年に開始された国営諫早湾干拓事業の進行に伴い,諫早湾が有明海から293枚の鉄板によって切り落とされた(「ギロチン」)1997年から数年後のことである。この報道によって「ギロチン後有明海がおかしい」という問題が世間に知れわたったが,有明海の漁民は,それ以前から実感していた。
 最初に被害を受けたのは海底で育つタイラギなどの貝類だった。タイラギは,地元では貝柱といえばホタテよりも先に連想することになる二枚貝で,潜水漁業の主力漁獲物である。このタイラギの漁獲高は,干拓事業開始後すぐに減少し始め,「ギロチン」後には,稚貝が立っても夏場に死滅してしまい,数年間,漁獲高0という状態が続いていた。そのため,潜水漁業者は,陸に上がってしまった。
 また,干拓事業開始後,貝以外の魚の漁獲高も減少していた。漁船漁業者たちは,主力の魚が取れなくなっていくので,取れるものなら何でも取ろうとして,新たな漁に挑戦した。しかし,その新たな漁も次第に駄目になっていく。魚市場に持って行く魚が取れないので,有害な魚であるエイを取って役所から日銭を稼ぐしかない者も現れている。
 そして,最後に海面で育つ海苔にも大被害が起きた。海苔の2001年度は豊作だと報道されているが,連続して不作になった地域も多かった。2002年度はまたしても有明海全体で不作だった。海苔養殖業は,巨額の設備投資と事業経費を要するため,連続した不作は既存の負債をさらに大きく膨らませた。それでも海苔養殖業者は2003年度(本年度)の海苔養殖に挑戦しているが,2003年度の秋芽は不作だったため,冷凍も駄目なら首を括るしかないという危険な賭けが現在進行中である。
 このように有明海は,かつての「豊饒の海」という姿を失い,沿岸4県すべての海域の海底から海面において,生き物がいなくなり,「死の海」と化しつつある。これは漁民も同じであって,有明海異変は,有明という地域から一つの産業を消滅させ地域文化の崩壊をもたらすところまで進行しつつある。

2 よみがえれ!有明海訴訟この1年

(1) よみがえれ!有明海訴訟とは
 こうした有明海異変に対し,2002年11月26日,有明海沿岸4県の漁民が中心となり,国営諫早湾干拓事業の差止を求めて,佐賀地方裁判所に仮処分と本訴を同時に提起した。これを「よみがえれ!有明海訴訟」と呼ぶ。この訴訟の真の願いは,地域としての有明,そこに生活する全住民の自然的社会的生活環境全体の再生を求めることにある。すなわち,有明海は,それ自体独立して存在しているわけではなく,水源である山間部から河川流域の平野部と一体となって自然の生態系を作り上げており,かつそこで生活する人間の営みもその一環として成り立っているので,私たちの闘いは,有明という地域全体の再生を求める闘いなのである。それゆえ,真の願いからすれば,よみがえるべきは「有明海」に止まらず,「有明」全体であるので,団長である馬奈木昭雄弁護士は「よみがえれ!有明訴訟」と呼んでいる。
(2) 争点
 本件訴訟における最大の争点は有明海異変と干拓事業との因果関係(被害発生のメカニズム)である。そこで,私たちは次の二つの因果経過を主張した。
 一つは,工事による直接被害である。工事現場に近い海域では早い時期から採砂による貝の死滅などが起き,またギロチン後調整池から排水される汚濁水が有明海を汚染したというものである。
 もう一つは,「奇跡のシステム」の崩壊によって有明海全体が永続的かつ壊滅的な被害を受けているというメカニズムである。もともと,閉鎖された狭い海域である有明海が「豊饒の海」たり得たのは,有明海が我が国最大の潮汐作用や干潟の浄化機能といった富栄養化を防止する自然条件(「奇跡のシステム」)を備えていたからだった。ところが,この自然条件が「ギロチン」によって破壊され,赤潮の長期化,貧酸素水塊の発生をもたらした。しかも,それぞれの条件悪化は相互に影響しあってさらに環境を悪化させていき有明海全体に環境破壊をもたらしているのである。
(3) 訴訟の進行状況
 仮処分の審尋は,本訴の弁論とほぼ同時並行的に行い,弁論では常に漁民原告による被害の訴えを裁判所に対して伝えてきた。ここに仮処分と本訴を同時に提起した意義があるが,前記のごとく被害の拡大は急速に進行しており,本訴で慎重に立証を行う余裕がない。他方,干拓事業の進捗率は2003年度末で95%に達し,2006年度完成予定に向けて農水省は強行を続けている。かかる現状を踏まえ,弁護団は仮処分にすべてを託すことにした。裁判所の訴訟指揮も,弁護団の要望と合致し,2003年9月以降,審理を急速に重ねた。そうして2003年12月12日を仮処分の最後の審尋期日とし,現在決定を待つのみとなっている。

3 見え隠れする農水省の故意

(1) 因果関係は不明か
 国は,訴訟において,未だ因果関係の科学的証明はされていないと主張している。積極的な他原因の主張立証をすることなしに,である。そもそも前記被害発生のメカニズムは,本件訴訟提起前に農水省が自ら設置した「ノリ第三者委員会」な どの調査結果で既に明らかになっていたことであったので,農水省の態度はわかっていながら原因究明を避けているとしか見られない。また農水省は,2002年4月の短期開門調査が行われた際,工事現場に近い4漁協に対して一定の被害補償を行ったが,これは調整池の排水と漁業被害の因果関係を農水省自身が認めているとしか評価できない。しかも,海苔豊作と報道された2001年のシーズンには,海苔の漁場である湾奥部への影響を避けるために調整池の北排水門からの排水を行わなかった。
(2) 謎の浮遊物への対応
 ところで,2003年5月,有明海では粘着性のどろどろした浮遊物が長さ13kmにわたって帯状に広がるという「謎の浮遊物」出現し,漁業被害をもたらした。最も有力な原因は工事で使用されている土地改良剤だったが,当初説明方法としては他にもいくつか存在したので,農水省は,考えられる原因のうち干拓事業と関連がないと一般人が最も評価しやすいある特定の原因のみを早い段階で報道発表した。これは過去の公害裁判で繰り返し国が行ってきた原因究明を遅らせるやりくちそのものである。
(3) 中長期開門調査をめぐる動き
 原因究明をあえてしないという農水省の態度は,中長期開門調査をめぐって顕在化した。前記「ノリ第三者委員会」が有明海異変の原因解明のために中長期開門調査の必要性を指摘したので,農水省は,官僚OBらで構成する「中長期開門調査検討会議」を発足させた。2003年12月,検討会議の専門委員会は,中長期開門調査に否定的な意見と肯定的な意見を併記して報告したが,検討会議は,中長期開門調査の実施に否定的な意見をまとめた。調査することを前提に調査のあり方を議論するはずの組織が,調査の是非に議論を集中させ,結局調査しないという結論に達したわけである。これによって農水省は,調査をしないことのお墨付きを得たことになる。
(4) 保全の必要性の争い方
 また,国は本件訴訟で,有明海異変は過去の事業で生じた被害だから残った工事を止めても意味がないとして保全の必要性がないと主張している。農水省は漁業者を守らなければならない立場にあるにもかかわらずそれを放置する態度に終始しており,本来の農水省としてのあるべき姿として根本的に誤っている。

4 運動の広がり

(1) 統一的な闘い(原因裁定)
 こうした農水省の強行を阻止するには政治の中枢の場である東京での運動の展開が必要だった。また本件訴訟に先行するムツゴロウ裁判,森裁判,有明海漁連の裁判と統一的な運動を行うことも必要だった。そこで,2003年4月16日,公害等調整委員会に原因裁定の申立を行った。これによって,東京にも本件訴訟を支援する会が発足し,統一した大きな運動展開が可能になった。
(2) 政治的な動き
 また,政界でもようやく動きが現れ始めた。佐賀県,大牟田市などでは干拓事業に反対する候補者が選挙戦を制し,前回の衆議院選挙では干拓事業の中止をマニュフェストに掲げた民主党が躍進した。そして,佐賀,福岡,熊本では,中長期開門調査を求める決議が相次いで採択されている。
(3) 立ち上がる研究者たち
 さらに研究者たちも,前記中長期開門調査検討会議の非科学的な結論に対し,「有明海再生のために開門調査は必須である」との声明を打ち出した。

5 今後の見通し

 このように私たちの運動の1年間は大きく飛躍したが,それゆえに農水省も原因究明を避けるための必死の抵抗をしている。したがって,佐賀地方裁判所で2004年早春に下される予定の仮処分の結論は極めて大きな意味を持っている。また,その直後に原因裁定の現地調査が予定されているが,これは仮処分で勝てば追い風となり,負けても大きく世論に訴えかける場となるものである。しかし,私たち弁護団は,現在生じている被害を直視した佐賀の裁判所が必ずや動くであろうと信じている。