〔5〕東京大気汚染公害裁判報告
東京大気汚染公害裁判弁護団


1 第1次判決と被害者救済制度確立を目指すたたかい
 2002年10月29日の第1次訴訟判決は,被告自動車メーカーらの法的責任を認めず,被害者の救済を幹線沿道50mの範囲に限定するなど,極めて不当なものであったが,他方,同判決は自動車排ガスと健康被害の因果関係を認め,道路管理者として,国・公団・東京都に損害賠償を命じ,また公害未認定患者への賠償を命じた点で,社会的にはきわめて重要な意義を有するものとなった。
 この判決を機に,国に対して公害被害者救済制度創設を求める世論は大きく広がり,法的責任を否定されたはずの自動車メーカー各社に対しても,救済制度の財源負担を含めて,公害防止の社会的責任を果たすべきとの声が大きく高まった。ここにおいて初めて原告団の悲願である公害被害者救済制度の創設の課題が,社会的に注目され,広く支持されるに至った。まさしく私たちのたたかい如何では大きく情勢を転換しうる好機であり,「次の判決待ち」の運動に堕さないたたかいが求められていた。

2 国に対するたたかい
 救済制度の創設を求める世論の要求は,当初国に向けられた。かつて公健法による指定地域解除を強行した国の過ちが改めてクローズアップされ,その後5たび敗訴判決を受けながらも,被害者救済に背を向け続けてきた国が最も強い批判にさらされたことは極めて当然のことであった。
 東京都はこのような国の姿勢を先頭に立って厳しく批判し,被害者救済制度の創設を要求し,国の不誠実さが国民的にアピールされた。これは多分に石原都知事のパフォーマンス的な色彩を帯びたものであったが,世論に対するインパクトは強烈なものがあり,我々の運動が追い込んだ成果であった。
 私たちはこのような状況を最大限に活用するために,2003年公害総行動を一つの時期的な目処として,国に対して救済制度創設を求める運動に全力を集中することを方針とした。
 原告団は連日の国会議員要請,各会派での学習会の設定,環境省・国交省への要請行動,5波に及ぶ集中行動・座り込み,4度にわたる院内集会,そして毎週宣伝行動などの霞ヶ関行動,救済制度を求める10万筆の署名運動,17地域に及ぶ地域連絡会の組織活動・地域での宣伝行動など,判決前の運動を超える規模と情熱で献身的にたたかった。
 これらの取り組みによって国会の状況は大きく前進した。3/18の環境委員会では公明党も救済制度の必要性を主張し,自民以外の全ての会派から当時の鈴木環境大臣が追及される事態となり,環境省には大きな衝撃となった。救済制度創設について国会内で質問がなされたのは計8日間,11名の議員が救済制度創設の必要性について,環境大臣,国交大臣をただした。少なくとも救済制度創設の必要性については誰も否定し得ないところにまで追い込んだ。
 また,国土交通省は道路管理者として5回にわたり加害者として断罪され,救済制度の財源負担すべき責任があることはますます明白になった。国交省は当初原告団との交渉を拒絶していたが,昨年5月20日にようやく100名規模の交渉を受け入れ,救済制度について「環境省から提案があれば,積極的に協議に参加する」と回答した。自ら被害者救済の責任を果たす姿勢は見られなかったが,当初のかたくなな交渉拒否をうち破って交渉窓口を開けさせたことは重要な前進であった。
 他方環境省は,救済制度については「2003年〜予備調査,2005年〜本調査。その結果を見て検討」との答弁から動いていない。国会での追及に見られるとおり,追い詰められていることは明らかだが,それだけにガードを固めていると見られる。これを突破するには運動の更なる国民的広がりと全国的な展開が必要であろう。

3 東京都攻めのたたかい
 東京都は第1次判決に対する控訴を断念し,石原都知事は都議会で原告と都民に対して謝罪した。しかし「東京都が先頭に立って被害者救済を」との原告の要求に対しては「被害救済は国の責任」とし,「原告団とは立場が違うので会えない」と交渉の場を持つことすら拒否していた(但し判決1周年の昨年10月29日には知事本部との交渉を実現させた)。
 そこで私たちは,現在18歳の年齢制限がなされている条例による公害医療費助成制度を,全年齢を対象としたものに拡充することを当面の緊急要求として,5月以降は東京都攻めを最重点として運動を進めた。
 6月以降,都庁前で毎週宣伝行動を組み,知事へのはがき運動,知事本部への要請行動,都庁前集会などを重ねて,知事への決断を迫ってきた。その中で,ディーゼル規制は「国がやらないから」といって先駆けて実施し,国の不十分な対応を批判していながら,被害者救済は,同じ加害者なのに国に責任転嫁して何もやろうとしない東京都の態度の矛盾はいよいよ明らかになっている。
 原告団はこれまで全都議会議員・各会派への要請行動に取り組むなどするなかで,都議会の状況は大きく変化してきた。野党各会派はもちろんのこと,公明党も「メーカーに財源を拠出させて,被害者の救済制度を実現すべきだ」との態度を明らかにしている。また都議会自民党の中からもメーカー課税を実現すべきとの有力な主張がなされるに至っている。
 このようなメーカー責任追及の動きのなかで,昨年11月27日,東京都税制調査会は,製造した自動車の汚染負荷に応じて各自治体が条例によってメーカーに独自に課税する余地もあることを提唱し,東京都としてメーカー課税を検討すべきこと を答申した。
 他方,都健康局は現在行っている大気汚染疫学調査の結果が,本年4月ないし5月頃発表されることを受けて,公害医療費助成条例の抜本的見直しに取り組むことを明らかにしている。これは2000年都議会で「(自動車メーカー等の)原因者負担」も考慮して制度の抜本見直しをする旨の議会答弁,議会決議を受けたものである。石原都政の福祉切り捨ての流れからすると,救済の拡大とは逆行する危険も大きいが,他方,未認定患者・公害被害者救済の世論を大きく結集することによって,年齢制限のない全患者救済を実現しうる好機となしうる条件もまた広がっている。
 このせめぎ合いをどちらが制するかが,被害者救済制度の実現のための正念場である。原告団は今年から,東京都に対し全年齢を対象とした医療費救済制度の実現を求める20万署名運動に取り組んでいるが,この署名運動を成功させることの意義は極めて大きい。

4 メーカー責任追及とディーゼル対策共闘
 第1次判決は自動車メーカーの法的責任は否定した。しかし,メーカーの公害原因者としての社会的責任は,判決上も現実の社会でも否定されなかった。判決日行動では1300名もの原告と支援者がメーカー交渉に参加し,確認書を締結して,ほぼ全てのメーカーに被害者救済制度の財源負担について「社会的要請もふまえて総合的に対応」「真摯に検討する」等とと約束させる成果を得た。
 原告団は,その後も各メーカーと交渉を継続しているが,確認書を勝ち取った力関係は,あの一晩限りのものではない。例えば判決1周年を機に一斉に設定されたメーカー交渉では,この1年間,公害対策面でも,救済面でも全く何の努力もしなかったメーカーの姿勢を,「判決を真摯に受け止めると約束したではないか!」と厳しく追及する患者の前に,メーカー側は声なしの状態であった。
 また,判決後の大きな前進はディーゼル対策の共闘が大きく進んだことである。昨年10月1日から施行されたディーゼル規制により,買い替えを強制された中小零細ユーザーの暮らしと営業は深刻な打撃を受け,社会問題化している。判決前に建交労,全商連,東京土建組合などに東京大気原告団が加わって共闘組織が結成されたが,昨年は埼玉,神奈川,千葉,愛知,兵庫などに運動が拡大した。
 このディーゼル対策共闘は,行政への働きかけと同時に,欠陥車ともいえるディーゼル車を長年にわたって製造販売して,今日の大気汚染公害の元凶となった自動車メーカーの責任を追求していくたたかいを繰り広げている。
 メーカー各社はNOxとPMの双方を低減する後付装置は,技術的に困難として,その開発,供給をサボタージュし,新車の買い換え特需により大きな利益を上げている。ところが昨年9月にエスアンドエス・エンジニアリングという小企業がNOx・PMを同時に低減する後付装置を開発し,国交省の認定を受けたことから,メーカーの「技術的に困難」との言い訳は通用しないことが明らかになっている。
 ディーゼル対策に関しては,交渉の場でもメーカーは,苦しい弁解に終始しており,この問題がまさしく「アキレス腱」であることを露呈している。
 今後もディーゼル共闘を軸に,メーカーの責任を社会的に明らかにするたたかいを大きく展開していきたい。

5 裁判の動向と展望
 裁判は東京地裁2〜5次訴訟,東京高裁で1次訴訟が並行して進められている。
 控訴審では9月に控訴理由書を提出し,9/18と12/18の2回の期日が持たれた。
 また昨年5月には75名の患者と遺族が第5次提訴を行い,原告団の総数は593名に拡大した。今年はいよいよ面的汚染の因果関係とメーカー責任の両論点についての立証が本格的にすすめられる予定である。
 地裁の2〜5次訴訟については,この総論立証と並行して,陳述書の作成など各論立証の準備が進められており,2005年結審を目指している。
 また原告団,弁護団は医療機関や地域の連絡会などと共同して,より多くの被害者を組織して,6次提訴を成功させるべく奮闘している。そしてこの被害者の掘り起こしの運動を首都圏や関西圏にも広げていくことが検討されている。