【巻頭言】
日本の最西端で
―被害がある限り運動は続く―

弁護士 吉野高幸

1  昨2008年は、カネミ油症事件発生(1968年)から満40年の節目の年であった。
 この年、カネミ油症被害者にとって@前年成立した特別立法によって国への仮払い金返還問題が基本的に解決し、A厚労省が被害者の実態調査を実施しその調査に協力した被害者に一人20万円を支払うとの二つの救済策が実現した。
 もちろんこの二つの救済策は被害者の最小限の要求にそったものではあるが、まだまだ不十分なもので残された課題は多い。
 その昨年12月14日長崎県の五島市で「カネミ油症40年シンポジウムin五島」が開催された。
 このシンポジウムは地方自治体(五島市)が中心となって取り組んだという点でカネミ油症運動の歴史の中で画期的な出来事であった。
 私はカネミ油症事件弁護団の結成時(1970年8月)からのメンバーとしてカネミ油症事件に関する様々な催しに参加してきた。しかし私の記憶では地方自治体が中心となって企画し開催された催しはこのシンポジウムがはじめてだからである。
 しかもパネラーに被害者、弁護士、学者、支援者だけでなく全国油症治療研究班の責任者や五島市長も加わっている点でも画期的であった。

2  そのシンポジウムで私は基調報告「これまでの経過と現状」を依頼された。持ち時間は15分間である。発生以来40年に及ぶカネミ油症事件の経過を15分間で要約するのは容易なことではない。そこで資料として事件発生から現在までの新聞切り抜きを利用し、それを参照しながら話をすることにして、私の手元にあるかなりの量の新聞切り抜きに目を通して70枚くらいの資料集を作成して基調報告を行うことにした。
 その新聞切り抜きを利用した資料集を作成し五島市の担当者にFAXしたとき担当者から「この資料集は参加者全員に配布しますか? そうすると300部作らないといけませんが」との問い合わせがあった。これまで五島市でのカネミ油症に関するいくつかの催しに参加して来た私には「えっ! 300人? ホントに?」と云うのがその時の率直な感想であった。
 五島市は平成の大合併で旧福江市が周辺の町村を合併して人口4万4千人余、旧福江市は人口2万8千人余の小さな自治体。
 したがって私が参加したカネミ油症関係の集会は多くて100人を超える程度だった。しかし12月14日当日は、私の予測を越えて200人を超える市民が集まり成功した。その点でもこのシンポジウムは画期的な催しとなった。
 思い返せば1976年6月カネミ油症の第一陣訴訟の福岡地裁小倉支部での最終弁論の直後(カネミ油症裁判に関する運動が五島で盛り上がっていた)に旧福江市で開催した最終弁論報告集会が150人くらい、このシンポジウムはそれを超える規模になったのである。

3  カネミ油症の発生から40年を経た現在この小さな自治体でこれまでの規模を上回る成功をおさめたのは何故か?
 ひとつはやはりこのシンポジウム開催の中心となった五島市の中尾郁子市長の姿勢だったと思う。
 多数の被害者が住んでいる自治体の市長として「自治体としてやれることやらなければならないことを具体的に考えて実行する」との意志と姿勢がシンポジウムでの挨拶やパネラーとしての発言などにあらわれていた。
 それではその中尾市長を動かしたものは何か?
 2005年10月同じ会場でカネミ油症五島市の会の結成を記念するシンポジウムが開催された。
 カネミ油症被害者は西日本各地に広がっており被害者全体を結集することは大変困難であった。
 しかも五島市では初期の段階で裁判を起こすか否かなどについての立場の違いなどからいくつかの会に分かれていた。
 それが2005年10月ひとつにまとまったのである。私が中尾五島市市長の話を聞いたのはそのシンポジウムが最初。市長は、五島市の被害者全体のまとまりを受けてカネミ油症被害者救済に本格的に取り組む決意を表明したのである。
 そのカネミ油症五島市の会結成の3ヶ月前(2005年7月)五島市で日弁連人権擁護委員会がカネミ油症被害者の被害の実情についてヒアリングを行った。
 このヒアリングは地元マスコミで大きく報道され、それを契機にカネミ油症被害者の救済について社会的関心が広がった。
 このような動きが翌2006年4月のカネミ油症全被害者集会(北九州市、カネミ油症の被害者団体のすべてが参加した画期的な集会)の開催に結びついたのである。
 この全被害者集会を受けて政治も動きだした。
 中でも五島市など関係地域の国会議員が果たした役割は大きい。
 全被害者集会の直後与党プロジェクトチームが立ち上げられ救済策の検討が開始され冒頭の特別立法などの救済策が実現したのである。

4  五島市と云う日本の最西端の小さな自治体がカネミ油症被害者の救済の運動のある意味で牽引車になった理由それはやはり「被害」と云うキィワードに尽きる。小さな自治体に福岡県全体の被害者数に次ぐ被害者が存在する。
 その被害者がそれまでの立場などの違いを越えてまとまった。
 自治体もトップを先頭に動きだした。
 それがカネミ油症被害者救済の運動全体を動かしたのである。
 昨年11月27日新たなカネミ油症被害者の裁判の第1回口頭弁論が福岡地裁小倉支部で開かれた。
 1987年の裁判終了後「認定」された被害者が直接の加害企業カネミ倉庫に対して損害賠償を求める裁判。
 被害者を代表して古木原告団長が意見陳述をした。古木さんも五島市に居住している。
 40年を経て新たな裁判を……
 冒頭のシンポジウムでは「認定」基準の見直しも議論され来賓の坂口元厚生労働大臣も「見直し」に積極的な発言をしてマスコミの注目をあびた。
 まだまだカネミ油症被害者救済の課題は残っている。
 被害者がいる限り運動は続く。
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