【若手弁護士奮戦記】
小松基地訴訟

小松基地爆音訴訟弁護団
弁護士 蕪城哲平

1  出勤3日目に……
 2005年10月11日、私は、弁護士として初めて出勤した。出勤初日のまっさらな机の上に、一通のFAXがあった。そのFAXのタイトルは、「検証スケジュール(予定)」であった。
 これは、小松基地第3次、4次訴訟控訴審における騒音暴露の実態に関する検証手続の日程連絡であった。私は、出勤3日目に、法廷外での検証手続に立ち会う機会をいただいたのだ。当日は、マイクロバスに同乗し、各計測ポイントをまわり、裁判官立会いの下、戦闘機の爆音測定をしていった。私は、裁判官を法廷外に引きずり出すことの大変さも理解せず、その手続きに同行していた。

2  弁護団に加入
 順序が違うが、その後、私は、正式に小松基地訴訟弁護団に加入した。もともと、私は、小松市出身で、高校卒業まで爆音被害のど真ん中で過ごした。(実家は、80コンター区域内にある)小松市で生活していた頃は、爆音が当たり前で、戦闘機が飛べば、授業は中断するし、テレビの音声などはまったく聞こえなくなった。天候、風向き等で騒音の大きさは違ったし、時には、戦闘機が飛行経路を間違えて、いつもより大きな騒音を撒き散らすこともあった。
 そのような、ある意味「慣れ親しんだ」騒音を、不法行為と捉えて国賠請求することに、少しのためらいと興奮を感じながら、弁護団に加入することにした。私が弁護団に加入しようと思ったのは、小松市の生活が全国的に見ると異常であるという当たり前のことが分かったからである。私は、大学時代は東京で過ごしたが、小松市を出て生活すると、当然、日常的に爆音に晒されることなどなく、爆音とうまく付き合う必要もない。頭上に戦闘機が飛行するという異常な生活を強いられる必要などないのである。しかも、この異常な生活は、国家により強いられているものであり、国家はそれを改めようとしない。この理不尽を追求したいと思ったからである。

3  第五次訴訟の区切りまで
 小松基地訴訟は、1975年に、わが国初の軍事基地を相手方とする騒音等をめぐる訴訟として、住民らが国を被告として、戦闘機の飛行差し止めを求めて提起した訴訟である。同様の訴訟は、他の軍事基地の所在地でも起こされているが、差し止めは認めず損害賠償だけ認めるという判断が定着化しているといってよい。
 先に述べたように、私は、第3次、4次訴訟の控訴審から弁護団に参加しているが、この短い間で、実に様々な経験をさせていただいた。弁護士となって初めての民事事件の尋問や、上述の検証立会い、沖縄の普天間基地訴訟への応援弁論などの訴訟手続きのみならず、原告団の方々と騒音の測定をしたり、各地域の公民館に出かけて住民の方を対象に小松基地訴訟の説明会を開催し、訴訟への参加を呼びかけたり、自治体への要請行動をしたり、実に多種多彩な経験をした。
 小松基地訴訟は、昨年12月に第五次訴訟を提起したところであるが、これまでの訴訟が提訴から控訴審判決まで約10年を要する長丁場の裁判になっていることからすると、この第5次訴訟も区切りを迎えるまで相当の時間を費やすと思われる。私は、第5次訴訟が区切りを迎えるまで、いろんな経験をしながら、原告団の方とともに頑張っていきたいと思う。
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