センター赤とんぼ理事長 松 光子

 1999年9月19日に「センター赤とんぼ」が設立されて3年半が過ぎました。
 活発にセンター講座として運用されて以来、患者さん自身によるセンター運営、日々の運営にかかわる班体制による当番制も軌道に乗りました。
 最初の目的でありました患者さんの健康回復、地域の環境の改善についても基盤が出来つつあります。
 患者さんが一番望んでいた、健康回復事業を充実させました。30年余りの病気との闘い、裁判での闘い、そして「補償法」を守る闘いと常に気の休まる事なく活動を続けて来て、心身共にほっとするのは仲間同士で誰に気兼ねをする事なく病状も気にする事なくうち解けられるのは回復事業でした。
 種々多彩な所へ楽しんで行きましたので列記してみました。

1999年度
  北陸・芦原温泉 一泊二日250人
  岡山・湯郷温泉 日帰り 150人
  よしもと新喜劇 日帰り 400人
2000年度
  山陰・城崎温泉 一泊二日150人
  よしもと新喜劇 日帰り 400人
  北陸・片山津温泉 一泊二日150人
2001年度
  伊勢志摩・鳥羽温泉一泊二日150人
  滋賀・彦根温泉  一泊二日 50人
  広島・宮浜温泉  一泊二日 50人
  亀岡・湯ノ花温泉 日帰り 100人
2002年度
  九州・別府(鉄輪)温泉一泊二日150人
  四国・琴平温泉 一泊二日150人
2003年度
  北陸・山中温泉 一泊二日 150人

 転地保養中発作を起こした人は一人もおりません。勿論、医師・看護婦さんも同道し、保養先にも病院を確保しておりましたが、幸いにしてお世話になる事はありません。患者さん自身も旅行当日までに医院できちんと治療も行っていますし、又、各人医療紹介状も持参してもらい万全を期しています。
 その一方で、「センター赤とんぼ」内で行っている各講座の発表の場を是非にという声が非常に大きく、2002年9月に、アルカイックホテルの大宴会場を借り切って盛大に催しました。講座の発表はもちろん、バザー、生け花教室と展示、メーキャップ指導、尼崎医療生活協同組合による骨密度・血圧・体脂肪の測定、尼崎鍼灸センターによる鍼灸や漢方療法の実技。又、文化行事として尼崎出身の演歌歌手、沖縄民謡、獅子舞などによる楽しい一日を過ごしました。「センター赤とんぼ祭」を開催するに当たって運営委員のみなさん、支部長を含め連日の如く打ち合わせを行いました。最初は350人位の申し込みでしたが当日480人以上に膨れ上がり、てんてこ舞いの状態で参加していただいた来賓のみなさま方に非常なご迷惑をおかけしました。その反省も含め、今後「センター赤とんぼ祭」をどのようにしてゆくのかを現在検討中です。
 全面解決以後、私達の運動を映像に残して後世に伝えようと、

  「子や孫に青い空、きれいな空気を」尼崎の公害、その歴史と闘い 第1部
  尼崎公害裁判全面解決への道 第2部

 以上を制作し、学校、行政等に配布しました。ヨハネスブルグでの首脳会議や、日韓シンポジウム、台湾における環境会議等にも配布しました。(外国向けに英文です)非常に好評で国内版100セットを作りましたが、現在手元にはなく増刷中です。
 各地域に置いて尼崎公害の実状や被害の実態等を訴えたり、高校、大学にも講師として出席し、被害の訴えや今後の尼崎について語りました。
 この中で、30年に及ぶ活動をパンフレットにまとめて配布しています。
 現在、龍谷大学の教授やゼミの学生さんたちと尼崎の公害の歴史や尼崎公害に関わった行政や、企業、医師、そして地域の人々、患者さん達の記録や裁判記録等を網羅した物を出版しようと鋭意校正中です。
 2001年3月に尼崎の町づくりをめざして設立された「尼崎南部再生研究室(通称あまけん)」のニュースレター「南部再生」も第8号を発行し、現在発行部数2千部まで普及できるようになりました。また懸案でもあった「尼イモ」の本の冊子も出来上がりました。知らない人も多く「尼イモて、尼崎のイモ?」と不審がる人もいますが、かつて尼崎で作られていた「尼イモ」の姿を復活させ、なぜ無くなっていったのかをまとめた小冊子です。
 この「尼イモ」については南部の人達の思いが強く、なんとしてでも再生してほしい願いが込められています。公害のまち尼崎のかつての原風景を思い出しながら一つ一つ復活させて行く、これも町づくりだと思います。
 2000年12月8日に国・公団と双方合意の上で尼崎公害裁判は全面解決し、和解条項の早期実施をめざして連絡会において種々検討をしていましたが、連絡会の座長が僅か一年半で3人も交代し、なかなか和解の履行も前に進まない、挙げ句の果てに「大型車の削減や規制について兵庫県警は出来ないと言っている。だから大型車の規制も削減も出来ません。これで和解条項の履行は終わりました」と言いだし、一方的に打ち切りました。
 私達が和解をした一番大切な約束事は、大型車の削減を含む大型車の規制をして、大気汚染の改善を図るという事です。この事があったから原告は損害賠償や差し止めまで放棄したのです。
 損害賠償や差止めだけでは43号線沿線のみならず、尼崎南部の大気汚染や環境改善はできません。ですから、国から申し出のあった、大型車からまき散らされる浮遊粒子状物質を減らす、すなわち大型車の削減と交通規制をするという約束事を信じたのです。
 一番大切な和解の内容を国が一方的に破棄し、国と原告との間の約束事を無視する態度に出ました。
 原告として命がけで闘い取った和解を、いとも簡単に国が破った事は絶対許す事は出来ません。私達原告は21人を代表として、公害等調整委員会にあっせんの申立てをしました。
 一度は全面解決し、本当に喜び合いましたが、またしても国を相手に再度の闘いを挑む辛さは前にも増して苦しいものですが、私達のまちを、人が住めるまちにしたい、みどり一杯で、とんぼやコウモリや燕が飛び交うまちにしたい。この思いで現在、公調委のあっせん案の行方を見守っています。
 これからも

 「自然を再生して 心のふるさとを取り戻そう」
 「子や孫に青い空、きれいな空気を」
 「人間が人間らしく住める町を」

 これらの願いが一日も早く実現出来るよう頑張ってゆきます。