【若手弁護士奮戦記】
九州奔走

久留米第一法律事務所
弁護士 市橋康之

1  はじめに
 私が久留米第一法律事務所に入所を決めた大きな理由の一つが公害弁連の一員として長く活躍しておられる馬奈木昭雄弁護士の存在でした。
 私は、弁護士登録をしてすぐ「よみがえれ!有明訴訟」、「ノーモアミナマタ訴訟」の弁護団に加入しました。馬奈木弁護士にあこがれて入所した私にとって、この二つの弁護団に加入したことはある意味で必然でした。

2  よみがえれ!有明訴訟
(1)  諫早湾干拓問題を知ったきっかけ
 私が、諫早湾を締め切る「ギロチン」の映像を見たのは、私がまだ京都で学生時代を過ごしていたころです。その映像をTVで見た私は、「ひどいことするな。こんなことして自然に悪影響がないはずがないじゃないか。」と率直に感じたことを覚えています。(ただ、まさか将来、私が弁護士としてこの問題に関わることになるとは当時は想像もできませんでしたが……)
(2)  弁護団への加入
 私は、平成19年9月の入所後すぐに有明弁護団に加わったことは先ほど述べたとおりです。私が加入した時点で、有明訴訟は、すでに提訴から数年が経過していました。弁護士なりたての私は、弁護団会議に出ても、先輩弁護士たちの議論に正直言ってまったくついていけません。当然、発言などできるわけもなく、弁護団会議ではいつも「傍聴人」でした。
 有明訴訟の大きな特徴は、裁判で勝つだけでは到底、解決が図れないことにあります。「よみがえれ!有明訴訟」という名は、有明海のみならず周辺地域の再生を目的としていることの現れです。そのため、弁護団会議では政治情勢との絡みで、「今、弁護団が何をすべきか。」が議論されます。政治情勢は移ろいやすいですから、前の弁護団会議で議論されていたことが次の弁護団会議では一切触れられず、まったく新しい課題が噴き出してきたりします。そのときの弁護団の先輩方の感覚は鋭敏で、その能力には圧倒されるばかりです。その議論についていくのは、私にとって至難の業です。
(3)  6・27開門判決
 2008年6月の弁護団会議で、私は、新人であるという理由だけで、佐賀地裁判決の旗出しの担当ということになりました。私自身、その佐賀地裁の裁判にはまったくと言ってよいほど関わっていませんでした。その直前の長崎での公金支出差止住民訴訟で原告敗訴の判決が出て間もない時期だったこともあり、弁護団内部では「勝てるだけの主張・立証は尽くしているが、やはり裁判所は勝訴判決が書けないだろう。」という予想が大勢でした。
 判決当日、私は旗出しをする他の弁護士と一緒に、傍聴席に一番近い原告席に座りました。
 いよいよ判決言渡しです。「主文。原告ら全員の主位的請求をいずれも棄却する。被告は、……本判決確定の日から3年を経過する日までに……以降5年間にわたって……」と裁判長が言います。私は、緊張していたこともあり、よく聞き取れず、完全に「?」です。そのとき、ある先輩から「行け。」と言われましたが、勝ったのか、負けたのかさえ分からず、「勝ちでいいんですか?」と聞き返しました。その先輩は強くうなずきました。  私たちは、原告席から飛び出して、四階から一気に階段を駆け降り、門まで走って旗出しをしました。しかし、判決内容が理解できなかったので、どんな表情をしてよいのか分かりませんでした。旗出しで微妙な感じの表情が全国に伝わったのは、そのためです。(後日、「もっと喜ばなきゃダメだ。」と多くの方からお叱りをいただきました。)
 私は、そのときの支援者の人たちの大きな歓声を間近で聞き、私自身、勝訴判決を心から喜べるようになりたいと感じ、弁護団にもっと積極的に関わっていこうという思いを強くしました。つまり、旗出しのときに、あまり喜べなかったのは、判決の意味が理解できなかっただけではなく、それ以上に、この裁判について私が何も関わってこなかったことから喜びを共有できなかったことに気づいたのです。
(4)  「傍聴人」からの脱却
 その後、私は、「傍聴人」ではいけないという当たり前のことから脱却するため、弁護団の中でとにかく自分にできることをしようと考えました。理論面などでは未だについていけず、弁護団会議などで発言することもままなりませんが、とにかく身体を動かすことはできます。現地まで原告に話を聞きに行って意見陳述書を作成する担当に手を上げたり、長崎、佐賀あるいは東京での行事・行動などに積極的に参加したりすることにしました。つまり、有明弁護団の「実動」部隊となろうとしたのです。
 長崎、佐賀には、土日は、毎週のように足を運びました。私が働く福岡県久留米市から佐賀の大浦や長崎の小長井には片道で2時間以上も車を走らせなければなりません。もちろん、土日は家族サービスもしないといけないので、妻を現地まで一緒に連れて行き、現地の温泉に放置し、私は原告の家に行って話しを聞き、終わったら温泉に妻を迎えに行って久留米に帰る、ということを繰り返しました。(九州はいたるところに温泉があるので、温泉放置には事欠きません。)
(5)  「現場主義」
 現地に赴く機会が増え、原告との距離も近づきました。原告の方から直接被害を聞くのは、やはり意義深いことです。
 漁民の方たちが、かつての有明海を語るときは、本当に嬉しそうに話をされます。魚介類は獲れすぎて困るほどであり、漁業で十二分の生活ができたのです。それは他人がうらやむほどだったそうです。まさに、「宝の海」「豊穣の海」だったことは漁民の話を聞くと実感できます。
 ところが、干拓事業が始まって以降、海は激変してしまいました。今の有明海では漁業で生活が成り立つ状況はもはやありません。廃業する人が増え、離婚や自殺なども後を絶ちません。生活ができない。借金が返せない。子どもに跡を継がせたいがとてもできない。それらの言葉を直に耳にしたとき、やはり「現場主義」という言葉の重要性を再認識させられます。被害者の声に、「直接」耳を傾けるということを私は生涯続けていきたいと強く思っています。

3  最後に
 「よみがえれ!有明訴訟」弁護団員の一員として、有明海とその周辺地域の再生を実現するため、できる限りの力を尽くしたいと考えています。また、上記では触れることができませんでしたが、「ノーモアミナマタ訴訟」弁護団員としても、水俣病被害者全員の救済を実現すべく尽力いたす所存です。
 自分の力の無さに自信を失いかけることもありますが、へこたれずに弁護団の先輩方、公害弁連の先輩方に何とか喰らい付いていきます。
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