因果関係論(発病と増悪の因果関係)

弁護士 島戸圭輔

一  発病・増悪の因果関係論の概要
1  面的汚染の主張
  東京大気汚染公害裁判の因果関係論の課題は,幹線道路の沿道に限られない,東京都全域にわたる「面的」な大気汚染(一般環境の大気汚染)と,それによる呼吸器疾患の発病・増悪の因果関係を立証することであった。
  東京において50万以上といわれるぜん息患者の数,そして東京の激甚な大気汚染の実態からすれば,大気汚染によるぜん息等の呼吸器疾患の被害が,幹線道路沿道に限定されないことは明らかであった(東京の一般環境の大気汚染物質濃度は,名古屋,尼崎等,大気汚染訴訟がたたかわれてきた地域の幹線道路沿道の汚染濃度とほぼ同等ないしそれ以上である)。東京において面的汚染の因果関係を認めさせることは,必須の課題であった。
  しかし,一次訴訟に対する判決は,千葉大調査(追跡調査)を根拠に幹線道路沿道50メートルとの間の因果関係を認定したものの,面的汚染を否定し,救済対象原告を,約100名のうち七名に限るという不当な判断であった。
  これに対し,私たちは,控訴審において,一審判決の不当性への反論とともに,発病・増悪の因果関係の主張立証をより整理した。その概要と,東京高裁による和解勧告においてどのように因果関係論が結実したかについて,ご報告する。
2  因果関係主張の骨子
(1)  発病の因果関係と増悪の因果関係
  東京訴訟の特色として,呼吸器疾患の「発病」の因果関係のほかに,「増悪」の因果関係の主張立証を具体的に整理した点が挙げられる。大気汚染は,単に健康な身体を呼吸器疾患に罹患させるだけでなく,すでに呼吸器疾患に苦しむ患者の症状をより悪化させる(増悪)。これは経験則的にも明らかといえるが,総論的(疫学,医学的知見)及び各論的(増悪にも焦点をあてた陳述書・尋問等)に主張立証を整理し,増悪の因果関係を浮き彫りにした。
(2)  根拠となった疫学調査
  以上の発病,増悪の因果関係の立証には,疫学調査が基礎となった。
  大気汚染の健康影響に関する疫学調査は,大きく分けて,長期的な大気汚染への曝露による健康影響に関する調査(「長期影響調査」)と,短期的な曝露に関する調査(「短期影響調査」)があり,おおむね,長期影響調査が発病の因果関係,短期影響調査が増悪の因果関係に対応する。
  それぞれについて,重要な知見を提出し,さらに専門家に意見書の作成,証言を依頼した。一次訴訟一審及び二次〜五次訴訟では元国立公衆衛生院統計学部長の福富和夫先生に証人として証言していただき,控訴審では岡山大学教授の津田敏秀先生と岡山理科大学教授の山本英二先生に意見書を作成いただいた上,津田先生に証言をお願いした。
  以下,発病と増悪の因果関係に分けて到達点を概観する。
二  発病の因果関係
1  発病の因果関係は,長期影響調査によって立証される。具体的には,これまでの大気汚染訴訟においても証拠となった千葉大調査と,海外の知見であるアドベンティスト・ヘルス・スタディ(AHS)が柱となった。
(1)  千葉大調査
  千葉大調査は,千葉県下の大気汚染と,学童のぜん息症状との関係を調査した疫学調査である。1996年に行われた「追跡調査」のほか,2000年,2002年にそれぞれ「曝露評価研究」と呼ばれる調査が行われている。
ア  追跡調査(1996年)
  追跡調査とは,平成元年から5年までの二酸化窒素(NO2),浮遊粒子状物質(SPM)の平均濃度を大気汚染の指標として,学童のぜん息症状発症率等を3年間追跡し,その関係を調査した調査であり,名古屋,尼崎訴訟でも提出された重要な知見である。
  この調査では,調査対象地域を,@都市部のうち幹線道路の沿道部,A都市部のうち幹線道路の非沿道部,B田園部の三つに分け,それぞれにおけるぜん息の発症率を比較するという方法がとられた。@は文字通り幹線道路沿道における因果関係に,Aは一般環境における因果関係に対応する。
  その結果,田園部(B)の発症率を1とした場合,都市部非沿道部(A)においては約2倍の発症率が,沿道部(@)については約4倍の発病の危険が認められた。
イ  曝露評価研究(2000年,2002年)
  これらは,上記追跡調査に続く調査であり,東京訴訟において初めて提出された(2002年調査は控訴審で提出)。いずれも,一般環境の大気汚染と発病等の関係に関する調査である。
@  2000年曝露調査研究は,一般環境において,NO2濃度が0.01ppm(ppmは100万分の1。1パーセントの1万分の1)増加するごとに,学童のぜん息の新規発症の危険が2.10倍になることを示した。
A  2002年曝露調査研究は,NO2が20ppb(ppbは10億分の1)増加すると,発症率が約3.6倍に,SPMが約25μg/m3増加すれば,発症率は約2.8倍になることを示した(それぞれ,館山と市川の濃度差に相当する)。
ウ  千葉大調査の評価
  一審東京地裁判決は,この千葉大調査(追跡調査)を最も重要な疫学調査と位置づけつつ,沿道部の発症危険には因果関係を認めながら,一般環境については判断を加えることすらなく,これを認めなかった。二倍の発病危険を無視した不当性もさることながら,千葉大調査が行われた千葉県下の都市と比べた,東京の大気汚染の激甚さを全く無視した判断と言わざるを得ない。東京の一般環境の汚染濃度は,千葉大調査における都市部沿道部(@)の大気汚染濃度と同等ないしそれ以上なのである。さらに,控訴審において提出した曝露評価研究は,一般環境においても2倍を大きく超える発病の危険性を示しており,上記一審判決のような判断は許されないはずである。
(2)  アドベンティスト・ヘルス・スタディ(AHS)
ア  千葉大調査に加え,有力な知見として提出したのが米国,カリフォルニアで行われたAHSである。これは,キリスト教再降臨派という宗派の信者を対象に,一般環境における大気汚染とぜん息等の発病,増悪等について追跡調査を行った調査である(教義上喫煙を禁じられているため,喫煙による影響を考慮に入れる必要がないという特色があった。)。
  このAHSは,大気汚染濃度が一定の濃度を超えた日数と,発症,増悪という健康影響が関連していることを示した。そして,本件地域においても,AHSで示された濃度を超える日数は多数散見され,本件地域における大気汚染とぜん息等の発症,増悪の重要な裏付けとなっている。
イ  しかし,一審判決は,AHSについて判断を加えることすらなく,一般環境の因果関係を否定した。重大な遺漏であり,控訴審,二次〜五次訴訟では,強くその不当性を強調した。
2  被告側の反論
  被告側は,私たちが提出した疫学調査において「統計学的に有意」な結果が得られていない部分を指摘したり,大気汚染と健康影響について関連性が認められないとする疫学調査を提出するなどして反論を行った。
  後者の例として,サーベイランス調査(平成10年から16年報告)がある。これは,特定の大気汚染濃度の高い地域において,大気汚染濃度と三歳児のぜん息の有症率との関係をみた調査であり,結論的には,両者に一定の傾向,明確な関連は認められないとしている。
  しかし,千葉大調査を見てもわかるとおり,疫学調査においては,単純化すれば,想定される原因(大気汚染)が多いところと少ないところでの,健康影響の差を比較して関連性の有無を調査している。上記のようにサーベイランス調査では,対象はいずれも大気汚染の高い地域であり,「比較」にはそもそも適当ではない。サーベイランス調査報告書自体,関連性を調べる調査ではないことを明記しているのである。
  このように,被告側の提出した調査はその主張を裏付け得ないものであった。
三  増悪の因果関係
1  増悪の因果関係は,短期影響に関する疫学調査と,最新の医学知見であるリモデリング理論の組み合わせによって立証がなされた(なお,AHSなど,一部の長期影響調査も増悪の根拠となっている。)。
  その主張立証の構造は,第一段階として,短期影響による疫学調査によって,大気汚染と「発作の誘発」との因果関係を立証し,第二段階として,「発作のくり返しによってぜん息症状が悪化する」ことをリモデリング理論により立証するというものであった。これにより,「大気汚染↓発作の誘発↓症状の増悪」という一連の因果関係が立証された。
2  短期影響調査
(1)  大気汚染による「発作の誘発」
  短期影響調査は,長期影響調査が年単位での大気汚染と健康影響(発病)を調査しているのに対し,日々の大気汚染濃度の変化にともなう健康影響を観察している。
  大気汚染の状況は日々同じというわけではなく,汚染濃度が低い日もあれば高まる日もある。そして,汚染濃度が高い日には,低い日と比べ,当該地域の死亡数,入院数,救急治療室の利用数等が増加する傾向がある。このような出来事は,いわば,ぜん息等呼吸器疾患の発作が起こったことを示す指標といえる。こうして,死亡数や入院数等(特に呼吸器疾患を原因とするもの)を通じて,日々の大気汚染濃度の変化(上昇)が,発作誘発にどのような影響を与えるかを調査するのが短期影響調査である。
(2)  短期影響調査は,国内ではほとんど行われておらず,本件で提出したのは全て海外の知見であった(なお,国内でもようやく平成19年7月に,PM2.5に関する調査が発表された。)。他方,海外では,短期影響調査は日常的といって良いほど行われている調査であり,図らずも我が国の大気汚染疫学調査の実態を示すことともなった。
  控訴審で追加,整理した結果,提出した短期影響調査は,死亡数,入院数,医療機関の利用数,気管支拡張剤の使用数に関するものなど24に上った(これらは証拠とするため厳選した結果であり,収集した疫学調査の数はこれに止まらない。)。
  短期影響調査の特色としては,そのほとんどが一般環境における調査であること,また,長期影響調査で反論の論拠となった統計学的有意性に関しては,ほとんどが有意な結果となっているため,問題となりにくいことがあげられる。
  また発作の誘発は,発病を引き起こすよりも低い大気汚染によって引き起こされることも明らかとなった。
3  リモデリング理論
  リモデリング理論とは,発作の繰り返しによるぜん息症状の増悪を医学的に明かとする知見である。すなわち,気道で炎症が慢性的に継続した場合,破壊された組織の修復が不完全となり,その結果半ば永続的な気道壁の肥厚が起こることで,不可逆的に気流制限が起きるという現象を明らかとしている。現在では,国際的にもコンセンサスが得られ,「喘息予防ガイドライン2006」においてその最新の状況が明らかとされている。
4  以上の各知見により,一般環境において,大気汚染により発作が引き起こされ,それによりぜん息の症状が増悪していることが,科学的側面からも示されたのである。
四  まとめ
  以上,本訴訟における発病,増悪の因果関係について,一般環境における大気汚染の観点を中心に概観した。以上の重要な証拠のほか,欧米,WHOと中心とする世界的な大気汚染物質規制の流れ等もあわせ考えれば,一般環境における健康影響の因果関係は明らかと言わざるをえない。
  ただ,以上の証拠を提出しながらも,二次〜五次訴訟において,裁判所は,沿道50メートル以内に居住する原告のみを証人尋問の対象とするという訴訟指揮を行った。この訴訟指揮の不当性及びこれを覆した経過は他の報告に委ねるが,このような訴訟指揮を行わしめた要因については,もう一度検討を行う必要があろう。
  しかし一方で,東京高裁は,和解案において,メーカーに対し,一審の判決の基準からすれば三倍以上となる金額を解決金として勧告した。これは道路沿道における因果関係のみしか認めないという枠組みであればあり得ない金額であり,一般環境に関する発病・増悪の証拠の集積を裁判所が無視できなかったことの表れと言うことができる(控訴審においては,沿道居住以外の原告に対して,増悪に関する本人尋問を行った。)。
  なお,以上のほか,「疫学的因果関係」の判断の枠組み論,統計学的有意性と疫学調査の証明力に関する問題,短期影響調査に対する被告側の批判等,被告側と鋭く対立した重要な問題は他にもあるが,紙幅の関係で割愛させていただく。
五  残された問題
  本訴訟で大気汚染の指標となったNO2とSPMのうち,SPMについては,東京訴訟の期間中に,ほぼその環境基準が達成されるに至った。
  事実上差し止めが実現したわけであるが,これを単純に喜ぶわけにはいかない。まず,もともと日本の基準は欧米と比べて非常に甘い(倍くらい緩い。)。
  また,より細かいPM2.5(粒径2.5マイクロメートル以下の粒子)に関する規制が日本にはまだなく,測定すら十分に行われていない。
  現在欧米では,PM2.5による環境基準がスタンダードになっている。アメリカ環境保護局(EPA)は1997年にPM2.5による基準を設定し,2007年さらに強化した。WHOも2005年に発表した最新のガイドラインにおいて,PM2.5のガイドライン数値を示している。
  翻って我が国における数少ないPM2.5の測定値をみれば,上記の環境基準値,ガイドライン値をいずれも上回っている。PM2.5については,呼吸器疾患ばかりでなく心臓血管疾患との関係を示唆する疫学研究も積み重ねられており,我が国でも早急に環境基準を設定する必要がある。
  2007年7月に,「微小粒子状物質曝露影響調査」という形で,我が国でもPM2.5と呼吸器疾患の関係が報告され,新聞等で報道された。また環境省は,「そらプロジェクト」という,PM2.5等と,学童・幼児の健康影響に関する疫学調査を開始しており(その方式に問題はあるが),平成23年には結果が報告される予定である。
  大気汚染と健康影響の因果関係の問題については,訴訟上の到達点と問題点は以上のとおりであるが,今後は,以上の到達点を,PM2.5の環境基準の設定,全国規模での救済制度制定への基礎として,どのように展開していくかが重要である。