東京大気の“勝利和解”を勝ちとって
―支援の立場から―

勝利をめざす実行委員会
事務局長  吉川方章

(はじめに)
  私は東京葛飾区の区労連の議長をしていたので,さまざまな大衆運動に関わってきた。ある日「葛飾で東京大気汚染公害裁判を支援する会をつってもらえないか」との要請を受けた。正直,私は東京の大気の汚染状況や公害として裁判に訴えていることなど知らなかった。
  01年8月,はじめて熱海合宿に参加し認識をあらたにした。それは被告が国・都・自動車メーカーなど巨大な相手であること,一方,原告は苦しい病をおして立ちあがった患者であること,力強い弁護士がついているとはいえ,これは大変なこと,それだけに大きな支援が必要だし,やり甲斐のあることと思った。葛飾での支援組織の立ち上げを心に決め,仲間との相談し02年3月葛飾青空の会を結成した。
  そしてこの運動へかかわることになり6年がたった。
1, 実行委員会の結成
  都実行委員会は02年1月31日結成しているが,原告・弁護団に東京民医連・東京地評労働組合等タテ線組織でスタートし,葛飾など地域連絡会は後から参加した。都内23区と三多摩に結成めざし,東京20区と多摩に地域連絡会が結成された。会の内容は,裁判支援中心の団体連絡会もあれば,裁判支援と街づくりや地域の環境問題へのとりくみを視野に入れた団体あるいは個人会員制のものなど,多様である。原告患者の関わり方にも違いがあるがこのたたかいを下から支えたヨコの組織である。
2, 実行委員会の強化―執行部の確立
  実行委員会の最初の大きなとりくみは第一次判決日(02.10.29)の行動であった。裁判傍聴と集会,都庁前集会,メーカー交渉他等の成功であったが,この日の諸行動はのべ5000人の参加で深夜に及び,メーカーとの確認書を交わすなど大きな成果をあげた。私は三菱担当になり交渉にも参加したが私たちの激しい追及に対し「勝ったのは私たちですよ」と会社側弁護士が小さな声で発言をしたのを覚えている。冷静に考えれば私たちの負け判決であり,今後支援連絡会と実行委員会体制の強化拡大なしに勝利の展望を切り開くこと容易ではないことをつかんだ。05年9月,原告・弁護団に支援組織も加わり三者一体になり,それぞれから4名出し12名で構成する執行部体制が確立した。原告・弁護団の個別会議とは別に月1回の執行部会議・事務局専従者会議・実行委員会幹事会(タテ線代表と地域代表)で方針討議,交流,具体的できめ細かい手立てなどをした。
  また,23区内を東西南北のブロックにわけ交流と相互援助をした。実行委員会幹事会は50回を重ね運動の大きな担い手として勝利への原動力になった。
3, なぜ,大きな支援ができたのか
  原告が先頭に立ち全体をリードしたことは間違ないが,率直なところ支援の健闘がなければこれだけの大きな闘いはつくれなかったと思っている。なぜそれができたのか。
*  実行委員会は執行部/幹事会で集団討議・方針確立・役割分担等を丁寧に行なったこと。
*  都内・首都圏・全国への徹底したオルグ活動で支援の輪を拡大したこと。狭い裁判支援にせず多様な支援連帯を要請した。情勢報告,署名,集会参加,連帯激励挨拶依頼,物品借用などである。
*  大衆的で世間に見える活動,マスコミを意識したとりくみを展開したこと。裁判所・都・トヨタ前集会,座り込み,泊り込み,パレード,遺影,大看板,キャンドル集会,歌,トランペットなど。
*  なによりも戦闘的で献身的な実務能力のある専従事務局員の役割が大きかった。参加者組織,集会手配,機材確保,物資調達,医療スタッフ確保,警察連絡,設営管理などである。
4, これだけ大きな闘いがなぜつくれたか
  激しく,しかも厳しい連続的な闘いをよく続けられたと思う。とりわけ,昨年の秋から今年の夏まで怒涛の闘いといってもいい。その理由をあげてみよう。
*  国・都の公害対策・環境行政の怠慢,大企業への追随,自動車メーカーの社会的責任(CSR)の欠如に対する国民的怒りが基本にあった。行動には批判があっても内容的には支持してくれた。
*  都民的に大気の汚れ,環境悪化の実感があり,支持・共感となった。各区の実態調査,小中学生罹患状況,マップづくりなどと,駅頭,団体,団地署名宣伝などで確信となった。(知事発言の影響も)
*  医療費助成制度の創設の基本スローガンは単なる原告救済ではなく全都民的課題であり,福祉切り捨てと闘い,社会保障充実の要求として受け止められた。しかもその財源をメーカーや国などに求めるとの主張に道理と説得力があった。加害企業への責任追及と行政の怠慢が浸透した。
*  トヨタ中心に攻める戦略の正しさが理解された。日本の政治経済への影響力と労働者いじめの元凶,自動車メーカーのトップを攻めることで労働者・労働運動との連携をつくれた(愛知労連のトヨタ総行動参加や全労連,全労協など)。
*  NO 測定,道路反対,基地騒音反対等東京及び全国公害反対運動の闘いの歴史を公害総行動などに参加し学び励まされた。
*  原告が中心であるが原告は病弱・高齢・運動未経験もあり無理はさせられず,支援がそれをカバーすることの意義が理解された。
*  弁護士の積極的役割,裁判所との連携,運動による内容づくり,組織強化のとりくみなどの努力,採算を度外視した勝利への執念が支援の心を動かした。
(おわりに)
  この闘いのなかで三者の意見を一致させることのむずかしさを学んだ。原告も一様ではなかった。病歴・生活環境や個別事情により考えも異なる。東京はスマートすぎるなどの声も耳に入った。
  しかし,認定・未認定患者が一つの原告となり,しかも広範な支援が継続的に関わる例は過去になかったという。東京だから出来たのかどうかは別にして,三者一体の実行委員会が中心に和解で自動車メーカー・国・都・道路会社による財源負担で医療費助成制度をつくり,公害対策を一歩すすめることができたことは,画期的成果といえよう。清水実行委員長が首相官邸からの回答文書を手にて「恋人や亭主の手紙よりもうれしい」と語った笑顔が忘れられない。勝利和解に立ち会えたことは最高の喜びでありを心から感謝している。