1950年代後半から60年代にかけての高度経済成長政策は、工業製品の輸出と巨額な設備投資に支えられ、反面公害防止への対策がかえりみられることなくすすめられてきた。そのツケは、公害の激発となり、さながら"公害列島"と言われるように日本の各地をおおいつくす結果となってしまった。
その象徴的なものは、四日市の硫黄酸化物による大気汚染被害、熊本・新潟の有機水銀による水俣病、神通川流域のカドミゥムによるイタイイタイ病などの公害事件である。これが、四大公害裁判として争われ、世論の注目を集めた。
(2) 「企業城下町」と公害被害者の悲惨な実態
こうした公害の発生源は、大企業に集中していた。当然のことながら、加害者と被害者の力関係の差は歴然としたものだった。さらに、発生地域を見ると、その多くは、いわゆる「企業城下町」での出来事で、被害者はものが言えない関係におかれていた。
水俣地域をあげると、水俣病被害者は、「少数派」として孤立させられてきた。病気の発生とその原因究明がすすむと、チッソ工場と行政側による原因隠しが行われてきた。被害者に対する集中診察では、診察医からは「なぜ認定申請したのか」「補償金が欲しいためか」と質問され、知覚障害の検査では、患者の回答をまったく信用しない検察医からは、全身血だらけになるまで注射針を突き刺されたあげく、「知覚障害はない」とされる患者も少なくなかったというのが実態だった。
水俣病による悲惨な状況にとともに、「企業城下町」での周囲からの冷たい視線も、被害者にとって苦しみをますものとなった。
「奇病・伝染病だと言って家の前をタオルで覆って走っていく人もいた」と、病気の出始めた頃の苦しみを語る人。
「家には男の子が何人もいるのに、水俣病などと申請したら嫁の来手がなくなる」と、夫に叱られた母親の話。
「裁判をやれば漁協から除名すると言われた」との漁民の話。
「水俣病とわかり離婚された」との主婦の話・・・など、何の責任もない一般の漁民・市民が、水銀で汚染された魚を口にしたために受けた被害の実態がこれだった。
こうした事実は1986年8月、筆者が東京代表団(第1回代表団52名)として参加した水俣病現地調査で知った驚くべき内容であった。
水俣市(町)における公害被告企業チッソの支配の実態は、文字通り「企業城下町」と言えるものであった。
チッソ工場長ほか工場関係者が、市(町)長や市(町)議会議員になり、政治的支配関係をつくりあげていった。また、経済的には、チッソ関係の収入が市税収入中の50%以上を占め、とくに固定資産税関係では62%をチッソが占める状況であった。また、水俣市の全労働者中、70%をチッソ従業員が占め、感覚的には市民の半数以上がチッソに何らかの関係をもっていた。1958年には、水俣市には、50人以上の従業員をもつ企業はチッソのほか4社しかない。その4社も100人以上はないのである。こうして被告企業チッソは、水俣地域を支配した(「水俣病裁判全史」第2巻より)。
(3) 1960年代から70年代初頭にかけての公害・環境運動の前進
日本全国が「公害列島」化するもと、1970年の幕あけとともに、公害問題が火を吹き出した。それは、日本国内はもちろんだが、世界的な問題でもあった。
「春がきた、沈黙の春だった。いつもだったらコマドリ、ツグミ、カケスの鳴き声で夜は明ける。いまは音一つない。すべては、人間が招いた禍だった・・・・」
これは、科学者レーチェル・カーソンの著書「沈黙の春(サイレント・スプリング)」の一節で、環境汚染による公害で鳥の鳴き声も奪われてしまったという、重大な全世界にむけての警告だつた。
この警告がきっかけとなって、1970年4月22日、全米をゆるがす公害防止・自然保護を求める大規模なデモとなり、これが「アースデー」として国際的な統一行動となった。また、「オンリーワン・アース、かけがえのない地球」をスローガンに1972年、「国連環境会議」がストックホルムで開かれ、有名なストックホルムアピールが採択された。
日本でも、四大公害裁判など公害被害者のたたかいが国民的な運動として発展した。運動の広がる根拠は、公害問題が人間の生命と健康をむしばむという生きる権利にかかわる重大問題だったからだった。
こうした世論の広がりが1970年11月29日、「公害メーデー」へとつながった。この統一行動は、労働組合の全国・地方組織と幅広い公害団体・市民団体がいっしょになって成功させたものだった。この集会・行動で掲げられたスローガンは、「青空と緑を取り返し、国民の命と健康を守ろう」という国民的な願いをこめたものだった。
このような取り組みが背景となって、「公害国会」開催と環境庁(当時)の発足(1971年)や、世界的にも注目された公害健康被害補償法の成立(1973年)へとつながつた。
(4) 「公害は終わった」との財界からの猛烈なまきかえしが
1973年の第1次オイルショック、つづいて1979年の第2次オイルショックを契機として、財界側からの、「公害・環境どころではない」との猛烈なまきかえしと、「公害は終わった」の世論づくりがすすめられた。公害被害者が文字通り「命がけのたたかい」でかちとってきた成果である補償制度が、「公害健康被害補償法『改悪』」(1987年)、「公害指定地域の解除」(1988年)となって、つぎつぎと奪われようとする公害被害者にとって、「冬の時代」を迎えることとなった。
こうした財界・政府のまきかえし攻撃は、1982年発足した中曽根内閣のもと、「中曽根・土光臨調」といわれる「第二臨調」によって強引にすすめられた。
「第二臨調」のキーワードは、@政府公共部門の守備範囲の再検討、A自立・自助、B民活(民間活力の活用)、の三つであった。すなわち、@政府公共部門の役割を「軍事・外交など、法と秩序の維持に限定」し、A「自立・自助・自己責任を損なう過剰な関与はやめるべきである」(第一次答申)としたのである。これは、福祉・教育・公害・環境など、国民生活に重大な影響をもたらす分野への対策を不必要な「過剰な関与」とみなして、政府の担うべき当然の責任を放棄するものであった。そうした上で、福祉などの後退・欠落させた部分を、B「民活」の名のもとに、民間企業の儲けの対象として「解放」したのであった。
「第二臨調」路線は、日本一国ですすめられたものでなく、レーガン、サッチャーの米・英政権との同一歩調のもとにすすめられた。その理論的な根拠となったのが、「市場原理万能論」「規制緩和」を掲げ、最も保守的な経済学の潮流といわれる「新自由主義」学派であり、弱肉強食の市場原理に基づく国民生活と、環境などへの犠牲をもたらすものであった。
2.各地から反撃に立ち上がった公害被害者と全国公害被害者総行動の足どり
(1) 「力を合わせて」を合い言葉に、大きな成果を
財界・政府の公害対策全面後退の攻撃に対し、公害被害者は、「冬の時代」を、自らのたたかいによってはね返そうと1976年6月、全国公害被害者総行動を組織した。以来、毎年の環境月間に、行政や公害発生企業などとの交渉、決起集会、宣伝など、広範な人々と連帯し運動に取り組んできている。この運動に対する公害被害者の思いは、大阪のぜん息患者さんのつぎの言葉となって示されている。
「ぜん息患者は、発作をおこした時、こんな苦しい思いをするのであれば、いっそ以前のあの発作の時に死んでしまっていればよかった。ついこのように考えてしまう。しかし、死んでたまるかと、気を取り直します。人間ひとときも空気を吸わなければ生きていけない。なんの罪もない私たち一般市民が、吸った空気によって、健康を冒され、命まで奪われる、こんなことは絶対に許されない。東京で行われる公害総行動への参加に備え、体調を整えておくのです。旅先で仲間に迷惑をかけてはならないから」。
公害被害者総行動の共通スローガンは、「力を合わせて公害の根絶を、子どもたちに住みよい住みつづけられる町・村を残そう」、「戦争こそ最大の環境破壊、人間の尊厳と生きる権利を奪うもの。平和を守れ」が引き継がれている。このスローガンは、被害者独自の要求であるとともに、国民的課題でもある。この要求を握って放さず、力を合わせて取り組んできたからこそ、30年もの連帯・共同の運動として、とぎれることなく前進させてきたのだ。その結果、全国各地の公害裁判で、"連戦連勝"とも言える輝かしい勝利をかちとってきたのだった。
(2) 公害被害者運動の果たしてきた役割 被害者の要求の前進と行政のありかたを動かした。
「日本の環境運動は、公害反対運動、とりわけ近年では全国各地でとりくまれた各種公害反対闘争を基軸に発展してきたことが特徴」(日弁連発刊「二一世紀をきりひらくNGO・NPO」より)と、評価されている。
各方面から評価されている中身は、まず公害被害者の切実な要求の前進をはかってきたことはもちろんだが、さらに、これまでの公害裁判の一歩一歩の前進が、世論を動かし、行政のありかたを動かしてきたこと、すなわち、裁判の人権保護機能を引き出し社会規範の創造・社会進歩に大きな役割を果たしてきたことだ。
公害被害者総行動は、掲げる行動名にも示すように、「被害者救済」「公害根絶」を中心的課題に据えながらも、さらには、ムダと環境破壊をもたらす大型公共事業・巨大開発に反対し、その根本的転換、国民のいのちとくらしを守る運動として発展させてきた。
3.30周年を迎えた公害被害者総行動の成功と壮 大な運動の発展めざして
(1) 今年の総行動デーは、6月6日〜7日東京で
公害被害者総行動は、今年が31回・30周年という節目の年である。全国各地でたたかわれた大気汚染公害裁判のうち、最後に残った東京大気汚染公害判闘争は、今秋結審の予定であり、いよいよ"正念場"となっている。この裁判闘争に勝利することの意義は極めて大きいものがある。大気汚染が全国的に広がるもとで、東京が最大の汚染地域であり、しかも首都であることから、勝利することの影響は計り知れないものとなるからである。
水俣病も今年は、公式発見(1956年)から50年を迎える。また、「ノーモア・ミナマタ国賠等訴訟」がはじめられ、運動の再構築が必要となっている。
憲法改悪問題もまた、政治的な焦点となってきている。「戦争こそ最大の環境破壊、人間の尊厳と生きる権利を奪うもの」を合い言葉に、公害被害者・団体は、これまで30年にわたる取り組みの経験を生かし、広範な人々と連携した壮大な運動をつくりあげていくことが求められている。
(2) 当面の重点課題
- 東京大気汚染裁判闘争
- 水俣病問題
- スモン・ヤコブ・イレッサなど薬害問題
- 軍事基地騒音公害問題
- ムダと環境破壊をもたらす公共事業・乱開発問題
- 全国各地で取り組まれている公害地域再生運動の連携と発展