公害弁連第36回総会議案書
2007.3.21  東京
【3】 特別報告
沖縄ジュゴン問題の現状報告
弁護士  籠橋隆明

1  沖縄ジュゴン事件の概要
 1995年9月4日,米兵による沖縄少女暴行事件が起こり,沖縄全県の怒りが爆発した。県下では基地反対運動が高揚し,日米政府も基地縮小への対応を迫られることになった。1995年11月には沖縄に関する特別行動委員会(SACO)が設置され,1997年8月にはSACOによる最終報告が発表された。当時,沖縄県で最も危険な基地であった普天間基地の返還が焦点となっていたが,SACO合意では同基地返還を決めたものの,代替基地建設など4項目の条件が伏せられることになった。この普天間代替施設が沖縄県名護市辺野古沖のヘリポート施設である。この施設はヘリポートとは言っても実際には巨大な飛行場設備である。
 SACO合意は米軍基地の県内移設であり,「苦しみ」のたらい回しであった。また,辺野古基地自体は戦後始めて建設される米軍基地であることから沖縄県民はSACO合意を受け入れることはできなかった。1997年には名護市で住民投票が行われ,住民はヘリポート基地受け入れを拒否し,これを受けて太田沖縄県知事(当時)は辺野古基地反対を表明した。
 ところが,1999年11月に太田知事が選挙で敗れ,新知事である稲嶺恵一は軍民共用空港とすることで基地移設受入れ表明した。1999年12月には名護市議会の基地移転促進決議,岸本建男名護市長による基地受け入れ表明があり,基地建設は秒読みの状態であると考えられた。
2  沖縄ジュゴン「自然の権利」訴訟
 日本環境法律家連盟(JELF)ではかねてより米国環境法による米軍基地による環境破壊問題を取り上げることを計画していた。辺野古沖にはかねてより日本最後のジュゴンが生息していることが問題になっていたため,我々は沖縄ジュゴン保護を求める法的手段の検討に入った。
 ジュゴン(dugong dugong)は最大3m,400kgに達する草食性の海洋ほ乳類である。日本のジュゴンは世界全体のジュゴンの生息区域の北限に当たる。骨の出現,伝承などから奄美大島以南に多数棲息していたことが伺われるが,現在では沖縄中部辺野古海域にわずか数十頭の個体群のみを残すのみとなった。日本のジュゴンは国の天然記念物として保護されているが,種の保存法では保護の対象からはずれている。我々は日本のジュゴンを沖縄ジュゴン(Okinawaan Dugong)と呼び,沖縄ジュゴンを原告に米国内での訴訟をめざしたのである。
 当初,我々は沖縄のジュゴンが米国種の保存法(ESA/The Endangered Species Act)の絶滅危惧種に登録されていることから,米軍基地建設がESAに違反するとして訴えることを計画した。ESAは環境法の歴史上最も強力な法律とされていることや,市民訴訟条項と呼ばれる客観訴訟の制度があって,我々日本人でも利用できる仕組みがあったことからESAに対する期待は非常に大きなものがあった。しかし,米国にて同時多発テロが起こり,米国は著しい保守化の波に襲われたために,ESAそのものも改正の動きが出てきた。沖縄ジュゴンで訴訟が行われればESAへの大統領側や米議会側からの攻撃が強まることが危惧され,我々は泣く泣くESA訴訟をあきらめざる得なかった。
 しかしながら,我々はなおもジュゴン訴訟の検討を進め,国家歴史的財産法(NHPA/National Historical Preservation Act )を活用することを考えた。米国は世界遺産条約に参 加しているが,この法律は同条約の国内実施法であるため,同法402条は米国内の登録された文化財と同等の趣旨で登録された外国の文化財を保護しなければならないとしている。沖縄ジュゴンは我が国の文化財保護法で保護された文化財であるため,NHPAによる保護の対象になると考えられたのである。JELFでは2003年9月25日にサンフランシスコ連邦地方裁判所に米国環境派弁護士と共同してサンフランシスコ連邦地裁に提訴した。原告はJELF他3名の日本人及び日本の環境保護団体,米国の環境保護団体である。事件の名前は,沖縄ジュゴン vs.ラムズフェルドと名付けられ た。国防総省(DoD)側はNHPAは生物を保護していないことや,基地建設は日本政府の行為であって米国政府は無関係であるなどと主張して却下判決を求めてきたが,サンフランシスコ連邦地裁は2005年3月2日に本案に入る旨の中間判決を出した。
 現在,我々はディスカバリー制度を利用して辺野古基地の軍事情報を入手しているところである。
3  辺野古基地問題の現状と訴訟の今後の展開
 沖縄県知事,沖縄市による基地受け入れ表明以降,建設は時間の問題とされてきたことは前述の通りである。防衛施設庁は辺野古基地については環境影響評価に先立ってボーリング調査が実施されようとした。これに対し,2004年4月19日地元においてボーリング調査阻止に向けた座り込みが始まり,その後,運動による海上封鎖も含めたねばり強い運動が展開し,2005年9月2日には政府は海上ボーリング調査中止に追い込まれた。さらに,2005年10月29日に日米安全保障協議委員会(2+2)が実施され,日米政府は辺野古海上案を撤回するまでに追い込まれた。しかし,日米政府はこれであきらめたわけではなく,基地をキャンプシュワブ内に建設することを取り決めた。
 基地計画を辺野古沖から陸側に追い込んだことは,JELFの訴訟も含めた地元の沖縄の運動の大きな勝利であった。今後はさらに陸上案を撤回させるべく運動を展開している。もっとも,陸上案は沖縄ジュゴンにとっては影響が小さくなるため沖縄ジュゴン訴訟の戦略も転換を迫られている。今後はディスカバリー制度の活用を徹底して,辺野古基地建設に関連した軍事情報を分析して運動に役立てていくことになろう。また,キャンプシュワブ内には思原(うむいばる)遺跡と言われる沖縄先史時代の遺跡が存在する。この遺跡の保護をめぐる訴訟も検討課題になっている。さらに,先の米国中間議会選挙では民主党が圧勝し,米国保守化の流れも大きく変わりつつある。われわれは再度ESAを検討してもよいかもしれない。