公害弁連第37回総会議案書
2008.3.23  諫早
【1】 基調報告
第2  公害裁判の前進と課題
5  海・川を守るたたかいの前進と課題
(1)  開発見直しの機運の高まり
 海・川を守るたたかい、それは、干拓・ダムとの戦い、すなわち、複雑に利権が絡んだ巨大公共事業とのたたかいである。
 20世紀後半の高度経済成長期は、公共事業による大型開発の時代であった。
日本中の川はダムによって堰き止められ、かつての清流は濁流に変わり果て、ダム周辺のみならず下流域、河口域の生態系、流域で暮らす人々の生活にも大打撃を与えた。また、海、特に干潟などの浅海域は、戦後、人類にとって利用価値の乏しい邪魔ものであるとの誤解、それに加えて、埋立や干拓が容易にできる場所として格好の開発対象とされ、戦後半世紀の間に、わが国の干潟の約40%が消失した。
 しかし、近年、わが国においても、ダムに頼らない利水・治水事業の検討、そして干潟等浅海域が有する生物生息機能、漁業生産機能、水質浄化機能など様々な重要な機能が見直されるようになった。
 特に、1993年、北海道釧路市で開催されたラムサール条約第5回締約国会議を契機に、浅海域保全の機運が高まっていった。また、前長野県知事による脱ダム宣言に象徴されるように、ダムによらない治水・利水が検討され、いくつかのダム建設計画が中止ないし見直されることとなった。

(2)  ギロチンの衝撃
 このようにダム建設、干拓に対する見直しの機運が高まる中、その流れと逆行するように、1997年4月14日、九州有明海の諫早湾において全長約7kmにも及ぶ国営諫早湾干拓事業の潮受堤防が締め切られ(いわゆるギロチン)、一瞬にして、広大な諫早湾干潟が失われてしまった。
 そもそも、諫早湾干拓事業は、1952年の長崎大干拓構想に端を発する干拓事業であり、その後の減反政策により、農地造成の必要性が失われたにもかかわらず、半世紀の間、干拓計画だけが亡霊のように生き延び、ギロチンは実施された。
 皮肉なことに、このギロチンのショックを契機に、伊勢湾藤前干潟の埋立事業の中止や東京湾三番瀬の埋立の見直しなど重要な干潟の開発行為の中止や縮小が行われた。

(3)  川辺川ダムの勝利
 熊本県の川辺川ダム(国営川辺川土地改良事業)については、2003年5月の事業変更計画を取り消す福岡高裁の画期的判決以後も、ダム建設を諦めない国交省との間でせめぎあいが続いていた。
 その後、2005年9月、国交省は川辺川ダム建設に伴う漁業権や土地収用裁決申請を取り下げ、ダム建設発表から約40年を経てダム計画は白紙に戻った。
 川辺川ダムのたたかいは、「はじめにダムありき」の行政に対して、地域住民が、疑問点をぶつけ、徹底した説明を求めたたたかいであった。つまり、住民が主人公であるという民主主義の原点に立ち返った粘り強いたたかいの結果勝ち取った成果であった。

(4)  ラムサール条約締約国会議の年
 今年は、第10回ラムサール条約締約国会議(COP10)が韓国で予定されており、湿地の保全の機運が大きく盛り上がる年である。国際的には、干潟を埋め立てることは前近代的な環境破壊と認識されて久しい。
 しかし、わが国においては、諫早湾干拓を始め、各地で無駄な公共事業が当たり前のように続いており、国際的に大きく非難されているところである。

(5)  民主主義の中での司法の役割
 「はじめにダムありき」「はじめに干拓ありき」として、半世紀前の計画を見直そうとしなかった行政に対し、そもそも、なぜダムが必要なのか、干拓が必要なのかを徹底的に疑問をぶつけ説明を求め、また、「お上が決めたことだから」と合理性に疑問を持つことがなかった地域住民の間においても情報を共有化し、自分たちのことだから自分たちで決める「住民が主人公」という民主主義の原点に立ち返ったたたかいこそ、わが国の公共事業のあり方を根本から変える大きな力になるものである。
 川辺川の勝利は、まさに、農民が主人公という民主主義の勝利であった。そして、諫早湾干拓失敗のツケを背負わされる長崎県民が公金支出の差止を求める住民訴訟を提起したことも、この民主主義のたたかいの表れである。
 しかし、必要性もなく、誰も望んでいない事業が、民意を踏み躙って強行されるのもわが国に多くみられるところである。
そのような場合、住民たちは、民主主義の過程において救済を得られなかった場合の人権保障の最後の砦としての役割を期待し、裁判所に訴えを提起する。一昨年、長崎地裁に提起した諫早干拓農地への公金支出の差止を求める住民訴訟などその典型例である。
 上記住民訴訟において長崎地裁は、「被告(長崎県)の主張は自己に有利な事情を誇張し、自己に不利な事情を軽視しているといわざるを得ず、経営収支総括表のとおり、営農が成立することが確実に見込まれるといえるかには相応の疑問が残るといわざるを得ない。」などと行政を厳しく非難したにもかかわらず、最終的には「その是非を決めるのは民主的過程においてであって」と判示し住民たちの訴えを棄却した。
 行政の不当性を直視し厳しく指摘しながら、裁判所が最終的な判断を避け、政治判断に委ねるこの裁判所の姿勢は、人権保障の最後の砦としての司法の役割を完全に放棄したものと言わざるを得ない。司法が役割放棄を続けるならば、わが国の民主主義は永遠に確立しないと言わざるを得ない。
 私たちの運動は、司法に本来的役割を担わせ、真の民主主義を確立するための大きなたたかいである。
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